2009年5月27日水曜日

些細なことに・・・

年をとっての一人暮らしというのは、些細のことが気になって、気になって中々寝付けなかったりする。

昨夜、食器戸棚の戸の蝶つがいのねじが外れて、いつもなら直ぐ近くに備えておいてあるねじまわしでゆるんだネジをねじ込んで事なきを得るのだが、昨夜は支えそこなって、扉ごと床に落ちて、戸棚の側面を削ってぶら下がってしまった。  ようやく、戸を元に戻して上側のネジを止めたものの、 この扉が元に戻らなかったら・・・・どうしよ う?  この備え付けの食器棚を作り替えたら・・・?  それでなくても、夏過ぎには洗面台を取換えようと思っているのに・・・・。    

あれこれ考えていたら、真夜中すぎてしまった。  階下に降り、安定剤を呑む。 目覚めは8時近く。
今日はごみ出しの日。
  
ジムに行き、仲よしのい友人とサイクリング・マシンに乗りながら、そんなことを話したら、「私が行くことで、気持ちが落ち着くのなら、行くわよ」とやさしい言葉を掛けてくださった。

帰宅後、時々小さな事をお願いしているご近所の工務店の方に電話してにみた。 直ぐ来て見てくださり、簡単に、木の部分に接着剤を付け、ネジでしっかり留めてくださって、一件落着!
文字どおり、「案ずるよりは、産むがやすし」ということ。

2009年5月24日日曜日

私とブログ

以前の”ヴィヴィアンおばちゃま”に続きこの“ふさ子よりハローを!”見てくださる皆様、ありがとうございます。  見てくださっている方々は私が存じ上げている方々のみ・・・と思っていました。

ところが、最近気がついたのは、GOOGLEのブログの紹介欄を見て、以前私が書いた”いけ面デリ’を見た方が、{ふさ子さん有難う」と一回200円でお弁当などを届けてくれたりする方があることを知って私も利用したいとおもうし、母も助かると思います・・・とのコメントがあって、トテモ嬉しかった。

時々、かなり個人的なことも書いてしまrうこともあるかもしれないけれど・・・・。 

今日は料理教室じの後、一月にお見合いをお世話した生徒さんがそのお母様と、その後についてのご相談があって、二時間ほど話し合いをした。  どうも、男性の方はお母様と同居を望んでいらっしゃるらしいし、彼も昨年お父様が亡くなり、お父様の方の家のローンは済んでいるものの、彼のローンは払わなければならない様子。  お見合いに立ち会ってくださった方お二人にそのことを伺っても、要領を得ず結局、直接お聞きになったら・・・・ということに決めた。

2009年5月22日金曜日

流行遅れの花紛症

先日、姪と代々木公園を散策していて、楠の木の花の匂いがして、だいぶ前、このあたりのマンションの庭にもおも何本か大きな楠があって、少しませた女学校時代の友人が「楠の花は精液の匂い」と教えてくれたのを思い出した。 それでも大きな楠は日陰を作ってくれていて、気分がよかった。

ところが、その 夜のどがヒリヒリして、風邪をひいたかな~…と思ったり、これは、姪に移したらえらいことだ、と眠れなくなって、階下に降りて、ラリンゴールという喉のうがい薬を探したが見つからず、何のことはない、二階の洗面所にあったので、急いでうがいをしたら、ずいぶん楽になった。

昨日、家に戻って、恐る恐る熱を計ってみたらほぼ平熱でて安心したが、ここのところ毎時間インフルエンザのニュースがあり、聞いているだけで、移りそうな気がしてしまう。

今朝はまた大変! 起きたら直ぐ水のような鼻水がたらりたらり、頂き物のティッシュの箱 を持って降りる。 これがホントの花粉症なんだわ。 忽ち紙袋はいっぱい。  書道教室に行くのにも箱ごと持って行く。 家に戻ると立てつずけにくしゃみの連続! これが、本格的な花粉症、それに可也流行遅れ! かな?

2009年5月21日木曜日

代々木上原あたり

その店は知る人ぞ知る・・・らしく、ケッチャップとかマスタードな ども超ビッグでアメリカに住んだことのある方はなっかしいだろうな~と思われた。
こう
姪は少し元気になって来て、前向きにいろいいろ進んでいて、その日もその翌日も近くの代々木公園を歩くという。 代々木公園は楠なども多く、花をつけているらしく、私は翌々日花粉症になったようだみたいだ。
それでも公園はいろいろなコーナーがあって、バラが色とりどりに美しく、またハーブガーデンや噴水などもあって散歩には公的。 だけど、私は以前に比べて疲れやすくなったな~と・・・思った。

昨日は上原まで歩いて行って、駅近くの素敵なお蕎麦屋さんに行った。 その日にソバ打ちをする人の名前が入口に書いてあって、その日のおそばは少し固めだったけれど、絶品だった。 

その足で、ジムのお友達がぜひ行ってみてくださいと仰っていたタルト屋さんを訪ねて井の頭通りを歩いて探しまわって、ようやく見つけたその店は以外にち

代々木上原あたり

17日から姪が上京して来ている富ヶ谷に四泊したことになる。
毎日好天でまるで夏のような毎日だった。  姪も出産まであと一カ月余りで、心の準備もバンタン戸いうところ。 お友達から頂いた赤ちゃんのおもちゃとか、彼女が夫と一緒に求めたという赤ちゃんようの産着やタオルなどを前もって洗って日光に当てるには最適の日々だった。 

その一つ一つが可愛くて ひとつひとつ声をあげてしまう。  二人の甥家族は既に子供を授かっているが、
この姪は、彼女が高校性のころから京都から東京に出て、こちらの学校に通い、私も英語を教え方々結婚するまで相談に乗ったり、アチコチ食べ歩きなどにも行った中なので、少しは体力的にも落ち着いてきた彼女と
富ヶ谷あたりをうろついた、

夕方少し涼しくなってから、近所にある、まるでアメリカに行ったみたいな店で彼女は大きなマック、私はフアップル・タイザーとフィッシュ・アンド・チップスを頼んだ。 むろん量はアメリカの三分のいch

2009年5月16日土曜日

明日から・

明日から富ヶ谷の妹達のところへ、5日ほど泊まりに行きます。  姪が7月に出産の予定で、今母親は所用で京都へ戻っているので、私がその間、面倒をみるというか、富ヶ谷付近の食道楽を楽しみに行くというか、ともかく、彼女が少しでも、穏やかな気持ちでいられるように、という思いがある。

昨日もジムを少しお休みすることを、お友達に話したら、アチコチで盛り上がって、私,以前富ヶ谷に住んでいたので、懐かしいというお友達や、あのあたりのおいしいタルトを売っているお店の話。麻生総理、阿部元総理の住んでいらる所の話などで盛り上がってしまった。
  
私がジムに行けない間に、ジムのインストラクターでそのジムはその方で持っていると皆が思っている方がお辞めになる。 この方はどなたにでも公平に指導を、しかも丁寧になさり、率先してジムの清掃、冷暖房などの調整すべてに気を配ったりで、私もいろいろ個人的な相談にも乗ってくださり、私の甥・姪とおない歳なのにトテモ得難い方だった。 今日、お世話になったご挨拶をした。

明日はこの地域の自治会の総会があり、私は行きがかり上、総会の議事録署名人どを頼まれているので。どうしても出席しなければならない。 どうぞ無事に穏やかに進行しますように・・・。

2009年5月13日水曜日

パソコンを変えました

度々フリーズしたり、ブログが突然消えてしまったり、大分長い間、我慢をしてっましたが、ようやくパソコンを変えました。 昨日NTTの人が来て,ヒカリに変え今日は午後3時から技師に来ていただき、セットアップと、いろいろなデーターのとり込作業をしていただいた。 午後3時から5時半までかかった。 私の方が疲れて、血管がプッツンしてしまいそうだった・。

多分皆様のところにも私の新しいメールアドレスが届いたことと思います。 お手数ですが お書き換えお願いいたします。 距離で時間差があるわけではないとは思うが、ご近所のお友達二人からは既に「了解」の返事があった。


機能が沢山あって、果たして使いこなせるかどうか心配だ。 

パソコンとメールアドレスが変わりました

2009年5月11日月曜日

老後と保険

時々ご紹介する朝日新聞の「人生デザイン」一人で暮らすに保険のことがかいれあった。
亡夫は若い頃は保険に関心を持たず、私は密かに夫と自分自身にそれなりの生命保険を掛けていた。 夫は何度も入院したし、私も子宮筋腫の手術をして何日か入院した。 その後夫も年払の保険に入っていたことを大分後で知ったた。 だけど保険に援けられたという記憶はない。

保険をかけるということは安心を掛けると言う事に成るだけかも知らない。 夫の死後遺族年金生活になって、私自身の保険の額が可也家計に響くのを感じて、下の妹にも言われて半分にカットした。

そこで、この新聞記事によると、’ひとり暮らし”の人は死亡保険は300万円、入院保険は一日5万円が目安という。 又私のように高齢者で土地や家など残すものがある人は死亡保険を減らして、医療費や介護費に回す方法もあると。 更に保険料を増やすより貯蓄に回す方がいいとも言う。
病気入院なども公的カバーがある人は一月の費用が100万円掛っても自己負担は8万7千4百70円だそうた。

それにつけても、夫が年末に突然入院することになったことがあって、日赤医療センターの特別室しか空いてなくて、10日くらい入院して100万円払い、今考えるとそれは病院の押し付けだと言う理由で全額支払う必要はなかったのではないか、と思ったり退院後申請すれば還付金があったはずだ、ということもその頃は無知で知らなかった。 何しろ私のように、お金持ちとは云えないのに、メンドウと言うことが先立って、どうにかなるさ~と過ごしていては、どうしようもない・・・。

2009年5月9日土曜日

何となく不安なこと

過去の写真の整理を取れあえず一時中止。

今週の木曜日、朝から私はおかしな行動をした。 そして一日落ち込んだ。 朝早く起きて、「今日は書道教室の日」だと思った。 木曜日を金曜日だと思い込んでいたと思う。  いつも先生が時間通りに来てくださるのに、生徒さんたちお二人は必ず30分遅れで見える。  前の書道の時間のとき先生に「時間を守ってください」と仰って下さいと云った私としては、どうしても時間少し前にクラブに着いていたかった。 受付の方と話していて、その日が木曜日だと言うことが分かった。 前にも一度そんなことがあった。  ボケた?とは思いたくない、でも若しかしてボケはじめたかな~。 私は色々言い訳を考えた。 ここのところパソコンを新しく買い替えることで、色々メンドウなことが重なり、アチコチに電話をかけたり、書類を見たり、聞いたこともないソフトを求めて来いと言われたり、少し頭がパニクッテいる。  

新しいパソコンでプロバイダーをニフティから変えさせられて、やがて私のメール・アドレスも変えなくてはならない。 英語が少しは分かる積りの私でもソフトの名称、使用方はまるで分からないし、この年では分かっても直ぐ忘れてしまう、と思う。 今日購入したソフトはUSDメモリー 一ゲガのもの? 分かりますか?
これは古いパソコンの記録、名簿、お気に入りなどのデーターを移し変える器具のようです。  こんなこと自分ひとりではトテモ出来ない!・・・と私は思う。 あ~あお金のかかる玩具だこと!

2009年5月7日木曜日

思い出の写真

前に書いた昔の写真の殆どは破いて焼いた。 その中でどうしても破きたくない写真が何枚かあった。 それは多分初恋と言える方の写真だった。 以前そのことについて書いたことがあったと思うが、それは戦争中から戦後へとつずき、最後はその方の死によって終末する。 老いるまで生きていて下さったらどんな話が出来ただろうか?と今思う。 無論その当時のことだから、清らかな若しかしたら一人合点の想いだったかも知れなかった。
最後に頂いたハガキには「男女の愛と師弟愛と混同なさらないように」とあり、それからしばらく経つてその方は突然亡くなった。 

今思い出すと、大岡山の家に来て頂いたとき、母がトテモ冷たい態度で応対して、その頃あったお茶室でお茶をたててと、頼んだのに「用意していないから」と言ったり、私としてはお食事でも、と思っていた希望を打ち砕く感じで、学生時代にお世話になった、という態度はみじんもなかったのに私は驚き果てた思いがある。

当時のお付き合いは、ご一緒に横浜に行ったり、ダンスに誘われたり(当時は社交ダンスが流行っていた)「もう少し上手になって欲しい」と言われたりもした。

私が青山学院、聖心女学院を受験する時も「青山、聖心おそれるな、実力さえつければ」と仰ってくださり、私が青山学院に入学して直ぐ、えたいの知れぬ病気で一学期休んだ時も「御見舞いに行きたいけれど・・・少し遠いな」と仰って下さった。 その頃その方は女子高の教師を辞めて東大の文学部の学生で、夜はアルバイトをして学費を稼いでいらっした。 古い写真は学生服の写真だった。 その当時は学生は殆どが学生服を着ていて、ボタンがそれぞれの大学を表し銀杏のボタンは東大の誇りだった。 

その頃、今の中学と高校が一貫で私は五年制の女学校を卒業したので、高校最後の集合写真はその方を中心の写真が残っている。 その写真の私は自分で”狢”と言う酷い顔の写真なので、当時ペンで塗りつぶしていた。

2009年5月5日火曜日

連休中に・・・・

今年の連休中は、芦屋に住む姪夫妻が夕食を一緒にするために訪れるほかには特に予定もなかったので、アルバムの整理をしようと思って、昨日私の最も古いアルバムを取り出した。  それは結婚する前に、小学校時代から女学校時代のものをまとめて一つのアルバムにして持ってきたものだった。

先ず小学校時代の集合写真をアルバムからはがした。 小学校一年生から六年生までのもの、一年生・二年生の時の担任の先生は「鶴野つる子」先生。 可也のお年の方で、当時ツルが重なるお名前で面白いな~‘と思った記憶がある。 三年、四年生の担任は平井光子先生。 五年、六年(六年生の一学期で東京にうつったが)の担任は松本先生。 書き置いたわけではなかったが、すらすらとお名前が出て来た。 ただ松本先生だけはフル・ネームが思い出せない。 この先生は男の先生で、がっちりしたタイプの方だった。 当時、私は(今では誰も信じてくれないだろうけれど)トテモ細かった。 もう一人細い方が居て、二人はその先生のお気に入りで、「足長蜂!」と言われて今の時代では多分訴えられるだろうほどの可愛がられようで、抱き上げられて髭を頬に擦り付けられたりした。

それが嫌さにその先生が召集され又私が父の仕事の都合で東京へ転校が決まった時はホッとしたものだった。 少しませたお友達が「アノ先生は最近縁切りしたらしいよ」と言っていたが、私にはその意味が分からなかったが、離婚なさったばかりということだった。 

とりあえず昨日は小学校分と戦前の女学校分の写真を破いて、易の先生に言われたと、ステンレスの洗面器にそれれを入れて、燃やした。 そして捨てることにした。  

想い出にふけりながら、燃やすのもケッコウ大変で、途中で燃え上がって、途端に易の先生の仰った「今年は火に気をつけて!」との言葉を思い出して、途端に恐ろしくなって、一時取り止めにした。 

遠い昔のことを思い出しながら写真を焼くのに時間をかけることは若しかしていいことかもしれない・・・と思った。 私自身の写真を焼く以前に本箱の中に沢山入れてある夫の海外公演の写真をどうしようかしら?  几帳面だった夫が丁寧にはった写真集は五冊もある。 私の海外旅行の写真集も十冊くらいもある。 どうしたらいいか、誰か教えて!

隣の母が亡くなった後、父と母の写真は破きながら庭で焼いたので、忽ち終ったけれど・・・・。 だだ、そのうち何枚かは残る人たちのために貼り代えて、妹に渡した。 ケッコウ大変な作業だった。 
アルバムを破きながらの思い出話は、まだ続く・・・・・。

2009年5月3日日曜日

長~い連休

独り暮らしの私にとってはこの長~い連休は、まるで関係ない! 夫がいた頃はこんなに長い連休はなかったし、土曜日も時には日曜日も出勤していた。 日劇という劇場に関係していたのでプロデューサとして、出し物が代わる時はその前夜は徹夜で舞台のが開く日は朝五時起きで出勤していた。 

仕事が好きだったとは言え、結果的に身体を壊して早死にしてしまったのだから本人はともかくとして、その妻はたまったものではない。 その上海外公演などもあったので、この季節はよく外国へ行っていた。 結婚前はオーストラリアとニュージーランド、その後結婚してからは台湾、香港へ出張。 ニューヨーク博覧会のためにニューヨーク滞在もあった。

結婚三年後の今ごろはイギリス・スコットランドへ六ヶ月。 それからしばらくして又オーストラリアとニュージーランドに四ヶ月。 最後の仕事は成功の可能性が少なくトテモ嫌がっていたけれど、会社員は上司の命令には逆らえず、ホントに嫌々ながらの仕事だった。 それも今ごろのことだった。 私の誕生日ごろはこちらに居ることが多かったけれど、その最後の時はオーストラリア公演中で、誕生日の朝早く「HAPPY BIRTHDAY DARING」の電報が届いて、泪をながしたものだった。 今考えると、なんと純情可憐なこと!

ところで、独りの連休は専らジム通い・・・と決めている。 先日、土曜日の健美操は人気のある時間なのだけれど、参加者は何時もの三分の一というところ。 「伊藤さん、連休にいらっしゃるのは珍しいですね?」と仲間から声を掛けられて、「そうかしら?」と自分では気ずかないでいる。