2012年3月28日水曜日

春は忙しい…一日が早く過ぎてしまう

昨日は大泉学園の易の先生宅を京都から上京してきている上野妹とお尋ねして、戻ってきたのは夜八時過ぎ。

今日は京都の妹夫妻が妹と私を先日の渋谷の妹達宅の建て替えのためのかたずけを三日にわたって手伝ってあげたお礼ということで、帝国ホテルのフレンチレストランに招待してくれた。

帝国ホテルは京都の妹の夫が定宿にしているので、サービスするスタッフもかなり気を使っている様子だった。 今まで地下のレストランとか入口近くのカジュアル・レストランとかしか食事をしたことがなかったが三階のフレンチ・レストランは料理といい、スタッフのマナーとか、料理の内容、飾りつけ、なども、さすがという感じだった。(私のオーダーした牛肉は少し硬かったけれど、飾りつけもパンがそれぞれの料理に合わせて焼いてあるとか、前菜の入れ物も工夫がしてあったり、今日は”さすが!”と言ってもよい…感じだった。

その後、妹達二人と入口のティールームで冷たいジュースを頂きながら昔話など話しながら時間を過ごした。
帰京する上の妹を送りがてら東京駅まで行って「家に着いたのは7時すぎていた。
 
帰宅後、易の先生からの電話で知ったことは、今日は午後4時?ごろから各界(歌舞伎、日本舞踊、和楽器などの有名人たちが集まってて演奏、実演をする会が行われる日だった由。  居ずわれば各界の有名人が見られたかも?

隅田川とスカイ・ツリーと浅草と・・・

以前ジムのお友達と京都に行った時、雨の中をいろいろご案内頂いた方とそのお友達がお二人、上京されたので、今週の日曜日今度はジムのお友達とお二人を東京案内することになり、浅草の雷門前で待ち合わせた。  私は以前行き慣れていた浅草なのに、申し訳ないことにだいぶお待たせしてしまった。

日曜日で、春休み中、しかも久しぶりの晴天だったので浅草はごった返し、参道を歩くのも大変なさわげだった。  友人の案内で雷門近くのロシアン・レストランに行ったが安いのに、品数も多く、かなり満足できる料理だった。 何年も通つた事のある浅草なのにこんな店があることは今まで全然気が付かなかった。  

そのあと、今話題のスカイ・ツリーがよく見える隅田川河畔に出た。  テレビで何度も見たスカイツリーが近くで見てみると意外に野暮ったく私には見えた。  私の結婚した年に建てられた東京タワーの方が私にはすっきりとして美しいと思えるのは?

その後、上野に出て東京駅に出て、大丸の日本茶の喫茶店でおしゃべりをしながら、それぞれ違った好みの日本茶を飲んで、たちまちお別れの時間になってしまった。  ホントにいい出会いと楽しい初春の一日だった。

2012年3月23日金曜日

新しいお隣さん

昨年の12月25日に長い間住んでいてくださったお隣さんが引っ越しされて、そのあとアチコチを修繕しておよそ三か月ぶりに、新しいお隣さんが入って下さることになった。

そのご家族はご夫妻とも39歳で女の子と男の子一人ずつとのこと。  今日は朝からあいにくの雨。  ひとまず奥様だけが来られて、ご主人とお子さんたちは、まだホテルにいらっしゃるとのこと。  上海から帰国されたと聞いていた。 書道教室を早めに切り上げて、伺ってみたら、奥様だけ荷物を待ちながら一人でぼっんと部屋にいらっしゃるようだった。 下の妹が「お姉さまは、面倒みすぎるから、気を付けた方がいい」と言っていたけれど、私はとても気になって、あまりごはんでお結びを作って、少しおかずをつけて、お昼にもっていってあげた。   上海から荷物が着くのを待って、何も用意がないようだった。

大きなトラックが二台着いたのは午後三時すぎていた。  聞いてみると、荷物を待っていて、ペットボトルのお茶しか手もとには無いようで、とても感謝された。  明日、ご主人とこどもたちとご挨拶に伺いますとの事だった。

2012年3月5日月曜日

震災と釜石と亡き父と・・・

今年になって何回もブログを更新しながら、途中で止めてしまっていた。  見てくれている方がないのではないか?とか、私自身も飽きたというか・・・。

今日の朝日新聞の朝刊の社会面に ’旅立つか残るか18の春’という紙面半分をさいての記事を見て、「ああ、あの釜石が・・・”と亡き父のことを思って・・・・

父が戦後何年か経って、当時の富士製鉄所(後の新日本製鉄所)釜石製鉄所の所長として(当時は四人の子供たちの学校の事もあって)、単身赴任していた。 戦後の鉄は宝の時代の事。 華やかで、父はその頃、産業の少なかった東北地方で、「多額納税者として、新聞に名前が載った・・と少し照れながら言っていた。

東京がら釜石までは、途中乗り換えなどもあって、可なり時間がかかった。  花巻で一泊して、釜石まで単線の石炭列車でトンネルを過ぎると急に美しい海が見えた記憶がある。 その海が・・・? (戦時中、その海岸に米国の軍艦が来て、艦砲射撃を受けてとかいうことは、当時の私たちは知らなかったこと(戦後、大分経ってから、家に来ていたお手伝いさんから聞いて驚いたことがあった)

新聞の記事に戻るが、多くの方々が津波で家族を失われた。 その中で、祖母を亡くされたSさんは釜石を離れる方々が多い中で、お父さんと同じ新日鉄釜石製鉄所で働くという。 「友達が出ていくのは寂しいけど、俺がこつちを守っとくから、いつでも帰ってこいってかんじ」親子2代の新日鉄マン。その父は言う「体はゆるくねぇけど、町で一番伝統のある会社。 息子が入るのはうれしいね」  町にはもはや、「鉄と魚の釜石」として栄えた面影はない。  更に、避難所で多くのボランティアと接した経験からKさんは社会福祉を学ぶため関東の大学へ進むという。 「震災で知った友情や思い出の大切さ。 形のないものは,流されなかった。 だから、どこさ行っても気持ちは釜石にあるって、自信があんだ」

二人の女性記者さんの書いた記事。  私は一度しか釜石を訪れたことはなかったが、文字どおり‘鉄と魚の町’。  それでも少し船で行くと’浄土ヶ浜‘という文字通り浄土を思わせる美しい島があった。 今はどうなっているのかしら?
  
一日も早く昔通り復興しますように!  それに、何人かお手伝いさんとして私達の家に来ていてくれた方たちは無事だろうか?