2008年8月30日土曜日
2008年8月20日水曜日
箱根は涼しかったですよ!
8月4日から昨日、19日まで箱根の小塚山、通称紅葉山にある京都の妹宅の別そうに招かれて行った。 妹夫妻は京都から小田原へ出て来るので私は独り新宿から高速バスで仙石まで行き、それからタクシーかバスに乗る予定だったが、メンドウになって、仙石原から別荘まで歩いて行って妹夫妻を驚かせた。
何しろ家の周りは多くの紅葉と深い緑に覆われていて、家の食堂から見る庭には岩たばこの群生で花はもう終ったようだったけれど、毎日、自家用温泉に入れるし、妹の夫は普段の疲れを癒すのに最適と言うわけだったが、当初から腰の痛みがあって、遂に滞在中には回復しなかった。
滞在前パンは十里木に来ていた下の妹が犬のベル連れで二泊して、それと入れ違いに芦屋から姪夫妻が来て、近くのイタリアン・レストランへ行ったり、湖畔にあるフレンチの名店オーベルジュ・オーミラドでご馳走になった。 その後は外大関係のお客様が二組泊られたり、少し緊張状態があった。 正直なところ、お客さまを外のレストランで済ませて頂くと妹も私もホッとするのだけれど、お昼をイタリアンで済まされてもお泊りとなると、夕食の前菜なども、買い置きの食材で料理しなければならず、知恵を絞らなければならなかった。
後半はお盆、オリンピックが始まり妹は真夜中まで観戦に熱中していた。 義弟は余り関心がないらしく、他のドキュメンタリーなどを自室で見ていた。 終戦記念日の頃の番組などは私も同時代なので、時々はお付き合いして見たりもした。 オリンピックの番組は、午後11時ごろから始まるものが多く、妹も私も少し睡眠不足になって来てしまった。
当初長いと思っていた箱根滞在も終わりごろはトテモ早く過ぎていく気がした。 そして、仙石原途中の’ガラスの城’から高速バスで新宿でバスを降りて、しばらく振りで雑踏の町に立ってみて、なんと人の多いことかと、怖れに近いものを感じて、新宿から又バスに乗り継いで渋谷に行き渋谷から又バスで大崎広小路で降りて、そこからタクシーで久が原に着いた時、静まり帰ったb街並みに心からホッとした。 ここに住んで27年?私もようやく久が原ラーナになったのかな?
何しろ家の周りは多くの紅葉と深い緑に覆われていて、家の食堂から見る庭には岩たばこの群生で花はもう終ったようだったけれど、毎日、自家用温泉に入れるし、妹の夫は普段の疲れを癒すのに最適と言うわけだったが、当初から腰の痛みがあって、遂に滞在中には回復しなかった。
滞在前パンは十里木に来ていた下の妹が犬のベル連れで二泊して、それと入れ違いに芦屋から姪夫妻が来て、近くのイタリアン・レストランへ行ったり、湖畔にあるフレンチの名店オーベルジュ・オーミラドでご馳走になった。 その後は外大関係のお客様が二組泊られたり、少し緊張状態があった。 正直なところ、お客さまを外のレストランで済ませて頂くと妹も私もホッとするのだけれど、お昼をイタリアンで済まされてもお泊りとなると、夕食の前菜なども、買い置きの食材で料理しなければならず、知恵を絞らなければならなかった。
後半はお盆、オリンピックが始まり妹は真夜中まで観戦に熱中していた。 義弟は余り関心がないらしく、他のドキュメンタリーなどを自室で見ていた。 終戦記念日の頃の番組などは私も同時代なので、時々はお付き合いして見たりもした。 オリンピックの番組は、午後11時ごろから始まるものが多く、妹も私も少し睡眠不足になって来てしまった。
当初長いと思っていた箱根滞在も終わりごろはトテモ早く過ぎていく気がした。 そして、仙石原途中の’ガラスの城’から高速バスで新宿でバスを降りて、しばらく振りで雑踏の町に立ってみて、なんと人の多いことかと、怖れに近いものを感じて、新宿から又バスに乗り継いで渋谷に行き渋谷から又バスで大崎広小路で降りて、そこからタクシーで久が原に着いた時、静まり帰ったb街並みに心からホッとした。 ここに住んで27年?私もようやく久が原ラーナになったのかな?
2008年8月3日日曜日
原爆63年目の真実、について
昨夜のテレビ朝日のドキュメンタリー形式の開局50周年特番「爆心地でほほえむ少女」について私は色々の思いを持った。 廣島の原爆については今までにも可也色々な報道がされていて、私の夫の親戚が廣島で受けた被爆についての話しなども聞いてきたし、廣島を訪れて原爆記念館にも行ったし、すざましい当時の話を夫の従兄たちから聞いたこともある。
廣島に原爆が落とされた後、当初は北九州の小倉に焦点を定めていたけれど、空が曇っていたので、長崎を襲撃することになったそうだ。 ともかく、二箇所に原爆を落とされることを避けることは出来なかったのだろうか? 先ずその事を残念に思うのは私だけではないだろうと思う。 長崎はまだ行ったことはなかったけれど、坂の多いそれでも何となく情緒のある都市のように思われる。 「爆心地で微笑む少女」について放送される前に何度もその情景が放送されていて、その美しい少女が、原爆を受けた後何故微笑んでいるのか? 微笑まされているのか? その応えはなかった。
子供を背負ったその少女を訪ねて、石原さとみというタレントが長崎を訪れた。 その写真はアメリカ人のダニエル・マクガバンという人で、故人であった。 長崎の爆心地の辺りの建物から、小学校が分かりその小学校にあった古い写真からその少女の兄弟を探し出し、遂にはその少女に会うことが出来た。
私が特に強い関心を持ったことの一つはその少女が多分私と同じ年ではないか、ということとその少女が、多分アメリカ人と思われる相手に何かをもらって満面の笑みを浮かべてお礼を言っている姿を自分に移し代えて見たからだ。
見付かったその少女はやはり、今78歳だった。 すっかり腰が曲がっていて、歩くのもたどたどしい様子だったけれど、今でもとても綺麗な老婦人だった。
以前書いたことがあったと思うけれど、私も終戦後、駐留のために川越街道を通ったアメリカ軍人から、チョコレートやチュ―イン・ガムなどをもらって妹達や母を喜ばせようとの思いに誇りを捨てたことがあった。 あの少女のアノ笑顔も促がされたものばかりではないものもあっただろう。 あの画面ではその答えは無かった。
廣島に原爆が落とされた後、当初は北九州の小倉に焦点を定めていたけれど、空が曇っていたので、長崎を襲撃することになったそうだ。 ともかく、二箇所に原爆を落とされることを避けることは出来なかったのだろうか? 先ずその事を残念に思うのは私だけではないだろうと思う。 長崎はまだ行ったことはなかったけれど、坂の多いそれでも何となく情緒のある都市のように思われる。 「爆心地で微笑む少女」について放送される前に何度もその情景が放送されていて、その美しい少女が、原爆を受けた後何故微笑んでいるのか? 微笑まされているのか? その応えはなかった。
子供を背負ったその少女を訪ねて、石原さとみというタレントが長崎を訪れた。 その写真はアメリカ人のダニエル・マクガバンという人で、故人であった。 長崎の爆心地の辺りの建物から、小学校が分かりその小学校にあった古い写真からその少女の兄弟を探し出し、遂にはその少女に会うことが出来た。
私が特に強い関心を持ったことの一つはその少女が多分私と同じ年ではないか、ということとその少女が、多分アメリカ人と思われる相手に何かをもらって満面の笑みを浮かべてお礼を言っている姿を自分に移し代えて見たからだ。
見付かったその少女はやはり、今78歳だった。 すっかり腰が曲がっていて、歩くのもたどたどしい様子だったけれど、今でもとても綺麗な老婦人だった。
以前書いたことがあったと思うけれど、私も終戦後、駐留のために川越街道を通ったアメリカ軍人から、チョコレートやチュ―イン・ガムなどをもらって妹達や母を喜ばせようとの思いに誇りを捨てたことがあった。 あの少女のアノ笑顔も促がされたものばかりではないものもあっただろう。 あの画面ではその答えは無かった。
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