2012年9月30日日曜日

嘘のような本当の話

ブログ投稿の設定がか変わって、少しためらっています。

毎週土曜日の午後9時からNHKで放映の「負けて勝つ」を見ていて、今から50年以上も前、毎週のように吉田茂さんのご長男吉田健一さんのお宅へお伺いしていたころのことを思い出した。  

そのお宅は市ヶ谷駅から歩いて5分くらいのところにあり、吉田家のご長男のお宅としては、思いもよらないほど、階下は一部屋の質素なお宅だった。 吉田家を紹介してくれたのは、京都から来ていた呉服屋さんの紹介で、私はその頃、ジャーナリズムに携わっている方と結婚したいという思いが強く、吉田家には文芸春秋社などに勤めている方々が集まるという話をその呉服屋さんから聞いていたので、是非紹介してほしいと頼み込んだ。

吉田健一さん奥様は大変気さくなお話し好きな方で、午前10時ごろお伺いして、お昼ごろまで。むろん私は聞き役だった。  文春にお勤めの方などは、むろん(その当時私の父は、富士製鉄所の常務取締役だったので)畑違いで敬遠された。 そのうち、健一さんの奥様が思い立ったように「三島由紀夫さんはいかが? いい、おぼっちゃまよ?」とおっしゃって、その頃書き下ろしの’美徳のよろめき’?というサイイン入りの新書を貸してくださった。  私はかなりびっくりした。  それまで、日本人の作家の小説は夏目漱石、、横光利一。堀辰雄の作品くらいしかよんでなかった。



2012年9月14日金曜日

お墓詣り

毎年、秋のお彼岸近くになると、亡夫方の甥から「何時多磨墓地へ行く?」と連絡がある。  

今年は、お彼岸も近いのに、まだ猛暑つずきだけれど、甥はアメリカに行く予定があるということで、帰国後よりは?と10時半に家の前で待ち合わせた。 白色のコンパクトな感じのベンツで来てくれた。 

途中の道もわりに空いていて、12時ごろ墓地近くのお茶屋さん{米内屋}に着く。 彼岸近くとはいえこの暑さとウィーク・ディなので墓地はガラガラの状態。  車で家から墓地まで一時間半以上はかかるので道々、甥のササンフランシスコに住んでいる一人息子の家族の話を聴く。 多磨墓地は大変広く、古い墓地なので、入口から車でも5分以上かかる。 私が車の運転をしていた時は夫を乗せたり、夫の妹も乗せてあげたりしていたけれど、車の運転をしなくなってからは、甥の車に乗せてもらえなければ、たぶん墓地まで行くことは年と共に難しくなるだろう。
一年に一回の墓参だけれど、多磨墓地は周りの景色は変わらないが、周りのお墓も所有者が変わったり、あたりの道も少しは歩きやすく舗装されていた。 

甲州街道沿いには洒落たレストランもなく、何時も’こうべや’で少し遅めの昼食をすることに決まっている。
暑さのせいもあって、帰宅したら何もする気がしなくなって、夕食は有り合わせを少し工夫して済ませた。

2012年9月4日火曜日

親友とは?

今日、女学校の高学年時代から仲良くしていただいているお友達と彼女のお誕生祝いをするために渋谷でま待ちあわせした。 渋谷は私の卒業した青山学院に近く、むろん私のテリトリーだと思っていたが、新所沢に住んでいらっしゃる彼女も時々御親戚と待ち合わせをなさるとか?

12時にお待ち合わせをして、お別れしたのは驚いたことに、午後7時だった。 昼食をとりながら話して、その後途中のベンチでしゃべり、喫茶店でまた話し、話は尽きることがなく、気ずいたら夕方の7時だった次第。

思い出話から、彼女の最近亡くなられたご主人のこと、二人とも育った環境が似ていたので、それぞれを受け入れるのが容易だったのかもしれなかった。  それでも女学校時代、彼女は特に理系が優れていらっしたので、私はついていくだけだったような気がする。 彼女は数学、化学に強かったので、東京女子大の理数科という、私には想像もつかない道を選ばれた。  私は文系と言えば響きはいいが、”英語”しか好きな学科がなかったので、青山学院の英文科と日本女子大の英文科を受験した次第。  最初から水をあけられていたけれど、チョットのみじめさもなかった。 彼女は高校時代、劇の主役をなさったり、私が一年先に卒業した後(都立の女学校は、当時5年生で卒業する人と、もう一年残って高校にとどまるクラスとがあった)。 彼女は優秀だったし、高校に残る道を選ばれた。  私は早く学校から離れたくて、専門学校の道を選んだ。 (目が疲れてきたので,今晩はここまで・・・)