2011年12月31日土曜日

2011年も今日で終わり

2011年・・・今日は大晦日、今年も今日で終わり!
 
年を取ると、一年がだんだん速く過ぎ去っていくように感じる・・というのは誰でも思うこと。 
むろん私も例外ではないのだけれど、今年という年は個人的には、平穏無事と言ってしまえば、その通り。 有難いことと思わなければいけないのだろう。

平穏無事ということを思うとき、言い換えれば、昨年のように、入院、手術もなかったし、子もなく、むろん
孫もない身としては、喜びも、悲しいことも少ないわけで、だから、幸せ、と言い切れるわけでもない。

例年、京都の妹宅で新年を迎えるのだけれど、今年は西の方角がよくないと易の先生に言われたので、無理に逆らう理由もないので、一人さびしく大晦日と新年を迎えることになった。

今年は、試しに、三段重ねのお重を予約したので、黒豆、ごまめ、きんとんだけを作り、ご近所のお友達三人に配った。 やっぱり、私は作ることが好きらしい。 

年越しそばも早めにいただき、あとは・・・? 今年は本門寺の除夜の鐘をきき、遠くから聞こえてくる?船の越年の汽笛?を聞きながら淋しく新年を迎えることになる。

2011年12月27日火曜日

おせち料理

お正月は、過去何年か京都の妹宅で過ごしているので、おせち料理も、あまり気にしないでいた。
今年は、易の先生に「西の方角へ行かない方がいい」と言われたので、自分の年の事も考えて、東京で新年を迎えることにした。

一応、おせち料理のお重を予約しているものの、何となく、何も作らないのも気になるし・・・下の妹の二男の嫁が「大伯母さまに、おせちを習いたい」などど、嬉しいことを言われて一泊どまりで、妹が迎えに来てくれた車に乗って一昨日から妹宅へ行った。  妹宅では毎年二日に家族が集まることになっているので、おせちの量もかなり必要になる。  

時間も限られていたので、伝統の? 黒豆煮、ごまめ、栗きんとん金柑の甘煮などを一緒に作り、妹の孫姉妹と楽しく過ごして、家まで二男の嫁が車で送ってくれて、お役目を果たした。  

翌日、私宅のおせちの用意をしなければならないけれど、ごまめの顔を見るのも少し飽きたので、一拍置くことにした。 時間もまだまだあるし・・・。  今日は薬を頂きに近所の医院に行ったり、友人を訪ねたり、
年が明けるということはいろいろ事多きこと。

2011年12月4日日曜日

地域のお祭り ”クラブ祭り”

今年で何回目になるかしら?    私が久が原南自治会の副会長をしていたころ、この辺りはあまりご近所付き合いがないので、自治会主催でふれあう機会を作ろうという趣旨と、私どもの自治会には幸せなことに
自治会が”みなし法人化”が認められたこともあり、また隣に南台地公園が隣接してあるので、この公園と自治会館を使って地域のお祭りをしようという話がまとまった。

バザーをしたり、お餅つきをしたり、役員、理事さん達はかなり忙しい思いをしながら、もう何十年もこの
’クラブ祭り‘は続けられている。  

毎年、時間がある限り私は様子を見に行っている。 今日も午前九時半から・・・と言うので10時ごろ出かけてみた。  驚いたことに、公園はいろいろな出店、お餅つきも臼が二個所、屈強な男性が二人、勢いよく杵の音高く・・と大変な賑わい。 お花を売る店、野菜、果物などなど。  おもちつき、には大勢の列が連なっていた。  

売り子さんたちは皆、私の知っている方々なので(私が電話して無理やり民生委員を引き受けてくださった方のお顔もあった) 顔見知りの方々にご挨拶とお礼をしながら、お天気にも恵まれたとはいえ、大勢のかたがたをかき分けながら、小さなポインセチアの植木鉢を求めてそそくさと家に戻ったけれど、若い方々も増えて我が?南自治会も発展するように・・・・!

2011年11月22日火曜日

下田で・・・過ごした二日間

女学校時代の友人が、突然、「下田へ行かない?」と誘ってくれた。 彼女は或る会の会員で、年に何回か下田の会員制のホテルに泊まりに行くと言って、上げ膳据え膳、もいいものよ・・・と誘ってくれた。

実はあまり期待をしてはいなかった。  友人は東京駅から、私は品川駅から伊豆急に乗ることになり、彼女は指定席の券を郵送してくれた。   久しぶりに伊豆急に乗るということと、昼食の弁当を買うこと、品川からの乗車券を求めることが可なり気になって一時間の余裕をもって家を出た。  年を重ねている?ということ、他人様に迷惑をかけたくないために、自分がある程度の努力・・・時間の余裕をもっということが助けになると私は思った。 

行きは、伊豆急の”踊り子”号は空いていて快適だった。  以前下田方面に行くためには、途中乗り換えた記憶があるが、進行方向の左側に美しい海を眺めながらの車中はトテモ気分の良いものだった。

下田駅には、いろいろなホテルからの迎えのバスが何台も止まって、お客を待っていた。  五分ほどで、目的のホテルに着いた。  ホテルに入ってみて、そのホテルの大きさに少し驚いた。 私たちの部屋は七階の部屋で、彼女はスィートをとっていてくださったので、八畳の和室、とツイン・ベッドがあり、予想していたより立派な部屋で、部屋のカーテンを開けてみて三浦岬を一望出来る美しい景色に感激! まるで、自然をうまく使ってつくつた箱庭のような眺めだった。

お待ちかねの夕食も、一日目は和食で、二日目はフランス料理と決めていたが、和食の献立はアワビや旬の魚の刺身を芸術的に盛り合わせた懐石料理で、蒸し物などの組み合わせもよく、失礼ながら会員制のホテルの懐石料理としては、かなりのものだと覆った。  ただ、終わりごろ出された味噌汁は少し失望した。

食後、しばらくして利用した温泉風呂も三段階に温,熱、を分けていて周りも広く,脱衣場もかなり広く満足いけるものだった。

2011年11月6日日曜日

昔話

先日京都に住む姪の長男、おなじみの諒太君とママが東京に出てきていて、妹達の渋谷の家に二泊することになった。  夏以来のことで、覚えているかしら?と思っていたら、ニコニコと私を迎え入れ、私の左手小指と薬指をつかんで、おもちゃの傍に引っ張って行かれた。

いろいろ遊んであげている中で、試しに昔話を話して聞かせてみた。  一つは’浦島太郎’もう一つは”桃太郎。 ”むろん、すぐ飽きてしまうかと思いきや、二つの物語を最後までじっと聞いていてくれた。  まだ二歳と四か月の子に、はたして理解してもらえたものかどうか、身じろぎもせずじっと、聞き入ってくれてトテモうれしかった。

そこで、次は、甥の長女で、ママが第二子出産で入院中の萌彩ちゃんが妹宅にパパと泊まりに来たので、寝物語?にお布団のそばで、同じお話をして聞かせていたら、目がだんだん見開いてきて、眠るどころではなくなってきた。  少し困ってきたところに、甥が入ってきて「ママが、大ばばにお話をしていただいていたら、萌彩は、寝ないと思うので、代わった方がいいって言ってきたから・・・」と言いながら部屋に入ってきた。
御明察!ということで、代わったら、間もなく萌彩ちゃんは眠った。

私は果たして、お話上手?なのか、どちらなのか?

2011年11月4日金曜日

英彦山

今日、ジムでサイクリング・マシンに乗りながら、テレビを見ていたら、北九州添田の英彦山で小学生が何人か、蜂に襲われて病院に行った・・・というニュースが報じられていた。

実は私の「英子」というのは、母方の父がこの字「英」を取ってつけたと聞いた。  当時、私の父は北九州の日本製鉄所に勤めていて、母の父もその前身の官営日本製鉄所に勤めていた。 父は英彦山の麓の庄屋に養子になって、当時の高等学校から、北九州の当時の帝国大学まで、学費をその養父に出していただいていた。

母の父親が私の父を見込んで、両親は結婚した。  私の祖父は当時の官営製鉄所で経理部長だったそうだが、文学的才能があって、私が長じて東京に来てその祖父の家を訪ねると、書斎の本の山にうっとりとして、書斎に入るのが好きで、祖父から「ふさ子は本が好きか?」と嬉しそうに目を細めていた。 

 英子と書いて、ふさ子と読ませるように凝ってつけてくれたことを、女学生だったころまでは、トテモ疎ましく思って育った。  小学校の頃も、女学校の頃も英子をふさ子と呼んでくださる方はなく、どちらかというと、引っ込み思案だった私は、先生が「えい子」「ひでこ」と読まれて、私が「ふさこです」というと「へえ?」と言われ、少し気の利いた先生は「そうか、はなぶさ、とよむからな~」と・・・そんな時、たぶん顔を赤らめて、立ちすくんでいた、と思う。

今日、テレビの画面に英彦山の姿を見て、何とも懐かしく、また心中誇らしく思った。  だた、今の今まで、英彦山を、英 英彦山 だと思っていた。

2011年10月13日木曜日

あれから、、もう50年以上!

今日夕方の報道番組で、有楽町の駅近くのビルが男性専門のブティクの変身する・・・という。

まさにそのビルは亡き夫が寝食を忘れて、汗をながした”日劇”の跡なのだ。  円形の劇場で道を隔てて朝日新聞社があった。  そんなことは今や遠い昔の物語なのだ。  戦後、その劇場に入るために、五重まきにお客様が取り巻いた。 それは山口淑子さん(李香蘭)を見るための事だったと聞く。

私が初めて、お料理を教えていただいていた女性登山家でも有名だった黒田初子先生に夫を紹介されて目白のご自宅から駅までの道で後の?夫から「これは僕が作ったレビュウです、見てください」と二枚の入場券をももらって、妹を誘って日劇でレビュウを見た。それまで「日劇」はおのぼりさんの行くところだ・・・と思っていた。  バレー、ありショート・コントありケッコウモダンで楽しいものだ、と思った。

本題から離れるが、その後夫は私との連絡もなく、30人くらいの踊り子さん、越路吹雪、ジェームス・繁田さんなどを引き連れて、プロデユーサーとして四か月間もオーストラリア、ニュウジーランドへ海外公演で出かけた。 むろん、東宝株式会社の社員として・・。 

私も当時の羽田空港に送りに行ったが、ほとんどクチをきくことができなかった。 それはそれとて・・・。夫が出かける前、日劇では渡辺プロを動員して、”ロカビリー・ショウを企画したのも、そしてそれが大当たりだったのも、夫が渡辺プロの晋さん、美佐さんに託したのだと後に聞いた。
  
その頃までが、日劇が新人のトウリュウ劇場として、ニューヨークのカーネギー・ホールと同じ役目を果たしてきた時期だったと思う。

2011年10月11日火曜日

墓参その2

下の妹の二男の嫁がから電話で「お墓に行きませんか?」と誘ってくれて、しばらくご無沙汰してて、気になっていた園田家の墓地、春秋苑へ行くことになった。 妹の孫たち、英里ちゃん里彩ちゃんたちに会うのも嬉しいこと。
下の妹とは墓地で待ち合わせることにして、私は二子玉から甥たちの車にのせてもらった。 当初、行けないといっていた甥も、妹の夫も来てくれて、にぎやかなお墓詣りになった。 伊藤家のお墓は私一人でお墓の掃除とか線香立てとかもしなければならなかったのに、小学生になった英里ちゃんと里彩ちゃんがまめまめしくお墓の掃除をしてくれて、ラクちん! 私達はただお参りをするだけ。 また来年もよろしく!

その後、何時ものように妹宅へ寄って、常に一人で夕食をとっている私は大勢の、楽しい夕飯を頂くことができた。
何時も有難くそれでも、心中、申し訳なさでいっぱいなのだけれど、甥たち一家が大雨の中、家まで送ってくれて大助かり、ご先祖様のご加護がありますように!

2011年10月4日火曜日

押入れの整理

春と秋に洋服の入れ替えのついで?に押入れの整理をすることになる。
今日も少し暇があったのと、お天気が良かったので、冬服を出しながら夏服を洗って収納の準備をした。

必ずと言っていいほど、整理をしながら、時に、その昔亡き夫から送られた外国からの手紙を読んだりして中々はかどらない。 今日は整理しようと思いながら捨てられないでいる、私が十九才のころ書いた「小説」を、今回は捨てようと思って読み返してみた。  読んでみて(大学ノートに書いてある)字がだんだん薄れてきているけれど、読んでみて、我ながらかなりよく書かれている・・・と自画自賛の状態になって、もう少しとっておくことにした。 

乙女心の初恋の描写がケッコウ、いけてる・・・と思ったのだ。 いつか暇をみて、パソコンに残しておいてもいいかな~と。 戦後のあのころの乙女心を・・・。  ついでに? 亡き夫からの英国、オーストラリア、ニュージーランドからの手紙、まるで旅行記、大勢の女の子(踊り子)さん達を引き連れて行った海外公演の報告便みたいなものもいつの日にか読みやすいようにまとめてみたいと思う。 

そうすれば、私の(ある意味)生きた記録にもなるかもしれない。  先日、夫の妹宅に行き、伊藤家の墓石のこと、伊藤家も私が最後になることがはっきりして、少し鬱になっているところ。 そう言いたくはないし、認めたくはないが、伊藤家は私で絶家となるわけだ。

2011年9月27日火曜日

楽しい後は、お墓詣りと・・・

日曜日は、下の妹の孫ちゃん二人のバレーの会。 午前中料理教室だったので、かたずけもそこそこ、妹夫妻と渋谷で待ち合わせて新宿のホールに駆けつける。  以前にもその会場で発表会があったので、開場よりだいぶ前に着いて、前の方の席を取ることができた。

妹の里彩、ちゃんも周りに気を遣いながら見事に踊れたし、お姉ちゃまの英里ちゃんは余裕の演技だった。
今、目をつぶっても、可愛く腰をかがめてお辞儀した二人の姿が目に浮かぶ。 

その翌日は、お墓詣り。 夫方の甥がいつも車で私宅まで送り迎えをしてくれるので、秋のお彼岸あたりに多磨墓地に行くことにしている。 今年は何時、どこで?地震が起きるかもしれないので?止した方が・・・と思っていたが、「どこでおきても、同じことだよ」と言ってくれたので、行くことにした。 

生憎途中で小雨が降ってきたが、無事墓参をして、やはりすっきりした。  この甥は中学二年生?のころ(まだ夫と結婚する前に、義姉に頼まれて英語を教えてあげたのだが、その後成績も上がって、大学はアメリカの行って、卒業後UNITED航空に務め、定年後、今は日本からの留学生をアメリカ、カナダの学校に紹介するという仕事をして、有難がれている。 道々の車中で、今は私の方が今の英語を彼から学んだりした。  
    

2011年9月13日火曜日

満月?

今宵は’中秋の名月か’?

階段の途中に東向きの窓がある。  その窓から東の空を見る。  今宵の月は真ん丸。 心なしか昨日より大きい。 小さ目の窓から、見る月はだんだん南の方に移り、寝るために窓を閉めるころには窓の中に納まらないくらい南によって見える。

季節によって月は形も大きさも色も、私には違って見える。  夏の月の色は薄めで、冬は黄色い色が濃いように見える。 月がまん丸くなるころには、庭のあたりで、秋の虫の鳴き声が大きく、多くなる。 さして広くない庭でも、こおろぎ、鈴虫、もしかしてミミズ?たまに’スイッチョン!’となく音もある。  このあたりに移ってきたころは、もっと複雑になく虫の音もあったような気がする。 お隣の家の庭がまだ広かったころ、虫の音が大きく、寝付けないこともあった。

そういえば、以前うるさかった、遠くから聞こえてきていた蛙の鳴き声は、最近きかれなくなったな~。
ケッコウ遠くから、夜になると、うるさく聞こえていたのに・・・・? どこかの池がうめたてられてしまったのかしら?

このあたりも、広い庭のある家がだんだん少なくなって、思いもかけないほどたくさんの家が建ってきた。

2011年9月4日日曜日

新宮

三月に下の妹とその友人と三人で”飛鳥”に乗って新宮に寄港、なんともそのすがすがしいような’新宮‘にお参りした。 街全体が何ともこじんまりして車で一日で回れそうな町だった。 その町が今台風による大雨で大変な騒ぎ!

先日、京都に住む姪と北日本は地震で大変だし、東京も時々小さな地震が起こるし、何だか紀伊半島は無事みたいね?と話したばかり・・・。 

地震があちこちで起きたり、想像もつかない豪雨に襲われたり、そのうち日本列島が沈んでしまうのではないか?と思ってしまう。  今もNHKのニュースで17人もの方が亡くなったと報じている。 あの、なんともおっとりした町で、那智の滝のある町でそんなことが起きているとは・・・・?

2011年8月19日金曜日

五日から10日間箱根で過ごしました

例年どうり五日から京都の妹の箱根の別荘で過ごした。  今年も姪が長男の諒ちゃんを連れて来ているので、それもトテモ楽しみな一つだった。 二歳になった諒ちゃんは、動きも俊敏になって、遊びも積極的で私の年ではついていけないほど・・・?

下の妹の長男夫妻と萌彩ちゃんが来て、近くのハイランド・ホテルで昼食をして、そのあと近くの”ラリック”(しゃれた雑貨店?)に案内して、買い物をして、そのまま彼らは浦和へ戻った。

諒ちゃんが私を遊び相手として朝から夜中まで元気に遊んでくれる?ので、私も楽しくて、帰宅してから実は少し疲れた。 年は取りたくないものだ。  暑かったせいもあって帰宅した日は一日何もしないで、ぼんやりして過ごした。 今はもう早く箱根に戻って諒ちゃんと遊びたい・・・と思う。 

年をとる・・・と思考力、行動力、判断力などすべてが劣ってくるのは当然なのだけれど、そんな自分をどうやって目立たないようにごまかそうかとしている自分を時、時あわれに思ったりする。 このことについてはまた改めて論じることにする。

今年は終戦記念日に家に居なかったので、そのことについて書くことができなかった。 それも、いずれ、機会をみて。

2011年8月3日水曜日

明日は夫の命日

朝、目医者さんに行こうとしていたら、弟から電話があって「そちらの都合の良い時間に行くので言ってくれ」と言ってきた。
  
今日は京都の妹の誕生日なので「おめでとう」の電話をして、その後目医者さんに行って・・・と午前中にいろいろ済ませておきたかったので、「それでは11時ごろにして・・・」と言って用事をすませて帰宅したら弟の車がすでに駐車場に入って弟は私を待っていた。

お花を抱えて入ってきたので「お盆のお参り?」と尋ねたら、仏壇に線香をあげていたので、二つ祭ってある(実家の園田家と私の夫の位牌)位牌の伊藤家に先に線香をあげていたので「園田の方から先にお線香をあげるのよ!」と今更ながらと・・・?と思いながらお花を水につけに行った。

「いや、康介さんには、いろいろおせわになったからな~」と思いもかけず、彼は明日の亡夫の命日のために来たらしいことを言った。 例年その頃は京都の妹宅の箱根の別荘に行っていて、気になりながらその日を送っていた。  

何時もそそくさと帰るのだけれど、今日は彼もいろいろなことを話したくて、私も付き合ってお昼を一緒にした。 
弟も年をとったなあ~。  故人の事を思ってお参りに来てくれるとは~ 有難いと思う一方、少し心配になった。

2011年7月22日金曜日

急がば、まわれ!

今日は朝から、忙しい、忙しい! と思っていた。  午前中に近くの医院に行ってお薬を頂き、一旦家に戻り書道の道具を持って南自治会館へ行く・・・。 何か月かに一回はそんなことが必要なこともある。

今朝は涼しげだったけれど、一応、洗濯をして、干して、近くの医院へ行く。  医院は待ち人が五人、可なり混んでいた。  入口で、患者さんたちの履物が全部上がったままの形でぬいであったので、私は五足の履物を靴先が入口の方行へ向けかえた。  一人の老人男性が私にお礼の言葉をかけられた。 私ってやや、ご節介? そこへ、ご近所のお友達がいらっして、その方の飼い犬などの話をしながら時間を待った。

診察が終わって医院を出たら、始まる時間まで10分しかなかった。 私はのどが渇くといけないと思って、急いでペット・ボトルに紅茶と少し砂糖を入れ、急いで栓をねじった(つもり)。  私の前を紺色のスーツを着た男性がクラブの方へ行き、入っていった。 「ここで、トイレを使うことができますか?」とその方は尋ねたので「どうぞ」とこたえた。

ふと、見ると紅茶を入れたペットボトルのふたがしっかりしまってなくて、私のバッグは紅茶であふれ、私が歩いてきた廊下は紅茶のこぼれたあとでぬれていた。  受けつけをしていてくださる事務の方が私の後を雑巾を持って拭きながらついてきてくださる。 

部屋に入ってバッグを見て、さらに驚いた! 中の財布、その中に入っていた一万円札二枚、 携帯、小さいタオル、手帳すべてが紅茶ずけ。  仕方がないので私はすべての内容物を棚に並べて干すことにした。 私は自分のオッチョコ、チョイさに自分であきれ果てた。 そして、反省した。 書道の先生も友人も黙って私のすることを見守ってくださっていた。 

だけど、私はまた遠からず、同じようなことをするに違いないとおもった。  

2011年7月21日木曜日

今日は’丑の日’

今日は丑の日、うなぎの日。  あまりにも涼しすぎる、'丑の日’。  母がいたころは、時々蒲田でうなぎを買って、夕食に楽しんだこともあった。  独り暮らしになってからは、特に丑の日にウナギを食べることもなくなっていた。

今日は丑の日にしては涼しすぎる日だったけれど、先日なんとなく築地の’はいばら”のうなぎに蒲焼を買って冷凍しておいたのを思い出して、今日はうなぎを食べよう!と決めた。  そのためには、少し運動をしなければ・・・と思って、午前中ジムで何時ものように運動をして、午後から久が原まで買い物に出かけることにした。  生憎?というか運よく・・・というか今日はトテモ涼しく、過ごしやすく、二・三日前の暑さはウソのような涼しい気候となった。

久が原駅近くの何時も行くブティックで、運よく?セールになっていたブラウスを求めて、ご機嫌で帰宅。
予定通り、’丑の日のうなぎ’を一人で頂いて「今年も無事に夏を送れますように」と独り淋しく、だけど今日のうなぎはケッコウ美味しかった。 

2011年7月11日月曜日

ブラック・スワン

もう、何年もの間、街で映画を見たことがなかった。  
夫のおかげで東宝KKの株主になり、配当の一部として、半年に一回映画の入場券が送ってくる。  何年もの間、無駄にしてはいけないと思って、必ず利用した下さりそうな方に差し上げていた。

ふと、考えて、偶には、私も映画館で映画を見てみようと思いつき、丁度今問題作としてアカデミー賞の候補にもなっている、ブラック・スワンを見ようと思い、ジムでバレーのプログラムにも出ていらっしゃる仲良しの友人を誘って、六本木の東宝映画に行くことにした。  何しろ暑い日つずきなので、あまり時間をかけず歩かないで行けるところと考えたあげく、六本木ヒルズの東宝映画館に決めた。  しばらくぶりで、パソコンで調べてみて、驚いたのは不景気も手伝ってか、以前のように映画館も朝から夜まで上映しているところは少なく、かろうじて六本木ヒルズでは、日に三回上映しているのが分かった。 ちなみに、日劇の後の映画館は夕方だけの営業だということを知って驚いたり、嘆いたりだった。

ここから、本題・・・’ブラック・スワン’はむろんバレーの世界の事の話なのだけれど、何十年か前観た’赤い靴’という当時話題になった映画とは段違いにドロドロとした・・・しかも擬音が生々しく大きく、金属音も交え、リアルすぎるセックスシーンもあり、血しぶきも飛び交うという、鬼気迫る感じで、久しぶりの映画鑑賞をした私には、とても刺激が強すぎて、途中で立ち上がりたくなるおもいだった。  むろん美しい’白鳥の湖’のシーンもあるのだけれど、最近の映画はこの程度の刺激的なシーンがなければ、観客が承知しないのかしら? ショック、ショック!の何時間かだった。

2011年7月8日金曜日

結膜炎?

最近あまり聞きなれない病名を眼科の女医さんから言われて、いただいた目薬を日に4回さすことにして、ようやく、昨日あたりから、ブログを始める気分になった。  

何しろ、目のふちが赤くなってかゆく目ヤニが出て、まったく不愉快な一週間でした。 昨日あたりからようやく新聞を読んだり、ブログも始める気になった。  ちなみに、眼科の美人の先生にパソコンをいじることとブログを書いていると話したら、看護婦さんと共に驚きの声を揚げていた。 私の年を御存じだけに・・・? 

私は小さいころから目が弱く、眼科と縁が切れない。 ヘンだと思うとすぐ眼医者さんに行くことにしている。 小さいころかかった目医者さんは眼をひっくり返したり、目薬をさしたり「こ、れ、ろ、か、ふ・・・
と目の検査の表を読まされたり、今は、最初は表を読まされるが、先生が顔をくっつけて、片方ずつ調べてくださる。 今回は少し、日にちがかかりますよ、と言われて、こんなに、うっとうしのだから・・・仕方がない子と思い、どうして、捏膜炎などにかかったか? 

今朝起きて、鏡を見たらうわ瞼は少しはれぼったい感じだったが、赤みもとれてずいぶん楽になった。 
改めてまた思う、どうし? 結膜炎になんかなったのかしら?

2011年7月2日土曜日

今年四回目の誕生祝

昨日、ジムの仲良しのお友達が私の誕生祝をしてくれるという。  家が近いので、バス停でまちあわせて、
田園調布まで行き、さて?どこへ連れて行ってくださるのか、期待と楽しみ・・・彼女はお嬢様が二人いらっしゃるので、何時も素敵な場所にお連れくださる。

私が脚が思うようでないので、田園調布からまたバスで二つ目。 そのあたりは田園調布、奥沢あたりのいわばお屋敷町のあたり・・・こんなところに?といぶかる中に古いお屋敷の入口で打ち水をしてあるお屋敷に入って行った。 内装はそのままのフレンチレストランだった。  ウイーク・デイなのに、待合室は大勢の中年女性のグループでいっぱいだった。 「この間、テレビで出たのよね」と言っている方があった。

十帖以上の依然なお座敷だったところへテーブルが10席くらいしつらえてあった。 
前菜はガラスの入れ物にガラスのバー用のものを置いてその上に五種くらいのものがのって、涼しげな印象を与えられた。 パンは米粉のもので種類も多く、スープもすずしげだった。  メインの佐賀牛なども、盛り付けが素敵でテをつけるのが惜しい感じ。 彼女はチーズまでオーダーしてくださり、いた抱いたブルーチーズは、久しぶりに出会ったおいしさだった。

最近はすランス料理もいろいろ工夫され、お客の目も舌も目も肥えてきたので、シェフも大変だ、と思う。

上の妹、下の妹、夫方の甥と下の妹の長男と私の81回目の誕生会をしていただき、もしかしたら私は今年4歳も年取ったのではないわよね?と独りでにやついている。

2011年6月28日火曜日

七夕の短冊に思う

何時も通っている?近所のスーパー・マーケットに暑さの中、文字通りふ~ふ~言いながらたどり着いた。

最近はスーパー・マーケットの冷房も控えめ、照明も控えめ、それは当然のことで、私はむしろ明るすぎる照明は野菜などをいためるのではないかと思う。

例年のように、入口に七夕の竹がたててあった。 買い物を終え、キャリー・バッグに買った品物の袋を突っ込みながら、ふと短冊の一つに目をやった。 たぶん小学校の低年の子供が書いたものだと思う。「バイオリンがじょうずになりますように」 「がつこうのせいせきがよくなりますように」などひらがなで書いた色とりどりの短冊の中に、ふと目をとめたオレンジ色の短冊に「パパのびょうきがわるいものではありませんように」というのがあった。

全部ひらがなで書かれているその短冊をまた読み返してみた。 この子のパパだとすれば、たぶん、40代だろう? 私はまた、もう一度読み返してみた。 一生懸命願いをこめて書いたに違いないこの子の願いをどうぞ、七夕様お聴き取りください! 私は重いキャリーバッグを引っ張り汗を流しながら千鳥町駅のほうへ向かった。 涙がこぼれそうだった。 

2011年6月27日月曜日

一人暮らしに慣れなくては・・・

女学校時代の親友のご主人様が亡くなったというお知らせは、亡くなられてから、少し経ってから知った。

今日、お悔みとお慰めに彼女のお家へ伺った。  新所沢の彼女の家は私宅から大分遠かった。 私も年をとったなあ~・・・何十年か前お訪ねしたときはもう少し近かったかな~? でも、その頃は私は五反田に住んでいたから・・・。 彼女は駅まで車で迎えに来てくださった。

あれから、何十年も経ってしまっている。  彼女のお母様が亡くなった時にお伺いしたその日から・・・。
最後にご主人様にお目にかかったのは、彼女が結婚されてすぐの事。 しかも、ちらっと。 あれから何十年も時がたっている。 キリスト教徒だったご主人はクロスのついた黒い布で包まれた中に入っていらっした。

飾られていたお写真も以前お会いした頃を思い出せないほど、日にちが経っている。 それぞれのお部屋には、お過ごしになっていた御生活を想像できる・・・それだけに、彼女の今の淋しさを思った。

彼女のお手作りのライス・グラタン風?のものとたっぷり野菜のサラダと煮物をいただきながら、思い出話がつきない。 青春時代の思い出話は、楽しいことが多い。 若い時代の過去はつらい戦後の生活の話でさえも楽しいものにしてしまう。

 私が感じたのは、最初彼女にお目にかかった時のお顔がお別れするときには、ふっくらと5歳くらい若返って見えたと感じたのは?・・・私は帰りの電車の中で、私がお伺いしたことで少しは彼女のお悲しみを和らげる力になったのかな~と。

2011年6月26日日曜日

何回目?お誕生祝い

先週の木曜日、亡夫の甥と私の(下の妹の長男の)甥が渋谷のホテルの中華レストランで私の何回目かの誕生祝をしてくれた。 

亡夫のほうの甥は私達が結婚する以前、義姉に頼まれ(もしかしたら頼られ)英語を教えてあげた。 以前にも書いたことがあったが、彼の努力もあって成績も上がり、その後英語が好きになって、あげく思いもかけず一人でアメリカにわたり自分で努力して学校を見つけて、大学に入りその後アメリカの航空会社に入社し、今、その一人息子はサンフランシスコで仕事をして、結婚し一男一女を得て、幸せに暮らしている。

彼も年に何度もその家族に会いに行き、会うたびにその家族の写真を見せてくれる。 先日もこのパソコンに彼の孫たちのサンフランシスコでの生活の様子の一部の動画を送ってきてくれた。  以前、よく「今の僕があるのは、この叔母ちゃんのおかげなんだよ」と結婚する時も今の奥さんに言ったりしていた。

妹のほうの甥は、妹達家族が夫の仕事でサンフランシスコに四年間滞在し、長男だった甥は小学校五年生になって、五年生で帰国しなければそれまでいた小学校に戻れないということで、二年間私宅で預かることになった。 その甥は私にはなついていたが、夫がどうか?と心配していたが、子供嫌いと言っていた夫が殊の外甥を可愛がってくれて、甥もなついてくれ妹家族がきこくするまで無事に過ごした。  今日は、これまで・・・。

2011年6月16日木曜日

紫陽花

紫陽花は梅雨に咲く花。 その時期は私の誕生月。
 
そういう理由ばかりではないが、私の家の狭い庭に紫陽花の株が二つある。 一本は以前から?生えていたもの、もう一株は、鉢植えで頂いたものを地植えにしたものだ。

一本は、がく紫陽花で、周りに白い少し大きめの花びら、中心にはブルーの小花がついている。 紫陽花は色が変わるので、移り気だと嫌がる人もいる。 土が肥えていると花びらがピンク色になるともいう。 私の家の紫陽花は一本は薄いブルーの小花がついているもので、もう一本は外側が白で中心部分はブルーだ。

毎朝、私は雨戸をあけて、庭の紫陽花を見て、日の当たる日はその色がピンクがかったブルーになり、雨の日はブルー色が濃くなる。  以前家の近所に前庭に一面紫陽花を植えていらっした家があった。 箱根にホテルを持ったいらっしゃる方の家だと聞いていた。  ところが最近そのお家も紫陽花も手入れが行き届かず、もしかしたら空き家なのかもしれない。

鎌倉の紫陽花寺を訪れたことがあったが、雨の中をかき分けながら見るのも思ったほど感激するわけでもなかった。 あまりにも大きく育ちすぎていて、抜け出るのが大変だった。
 
やっぱり、我が家でひそやかに人知れず咲いている二本の紫陽花が私は好きだ。

2011年6月15日水曜日

夏はもう迫っているのに・・・・

今朝、何時ものようにジムへ行く支度を整えて出かけようとしたが、なんとなく最近のジムの雰囲気が気になって、うろうろしているうちに、そうだ!ベッドを夏用に変えようと、思いつき、ベッドをひっくり返してみたら、なんと、まだ敷き毛布に電気毛布を敷いていた。

例年は6月になったらかけ毛布も掛布団も夏用にかえていたのに・・・今年はなんだかヘン! 天候もまたヘン!  今日はどうやら日が照っていたので、冬の掛布団を日光に当てることができたけれど、シーツとか布団のカバーは洗うことができない。 まあ、他人に迷惑をかけることもないから、天候を見て洗えばいいか?

二つ並んだベッドも、今はとりあえず一つだけ変えておけばいいし・・・。  ベッド・ルームをかたずけると、いつも余計なことをして時間をとってしまうので、今日は止そう・・・と思ったが、チョットだけ、ベッドの棚に積んである亡夫からの手紙の束を見て時間を過ごしてしまう。  あの頃は電話も思うようにかけられず、ましてメールなどという便利なものもなく、手紙の束はオーストラリア、ニュージーランド、ニューヨーク、台湾、ロンドン、スコットランドからのもの、 結婚以前のものもあった。 

最初に自己紹介の履歴書様のものも・・。 母上が書かれたのか? とうとう、訊かないままだった。  手紙の色もだんだん変わってきている。 

2011年6月13日月曜日

余生

「いかに、余生を生きるか?」

「あの方は余生を楽しく幸せに送られた」・・とか「さびしい余生だった」とか・・・余生とはあまりにも漠然とした言葉であり、いったい何歳からが、余生なのか?考えてみた。 漠然として、男性は定年で仕事を辞めた後を余生と言うのかな? それでは、女性は夫を送って一人になってからの事を余生と言うのかしら?

八十一才の誕生日を迎えて私はだいぶ以前から当然終息に近い余生を送っていると思っている。 余生にも個人差があることは確かで、その余生のまっただ中にいる私は今、何の不自由もなく、衣、食、住、友人たちにも恵まれ、可なり充実し、幸せな毎日を送れていると、感謝している。 むろん自分でもそれなりの努力もしているつもりではある。

余生を楽しく生き抜きたいと誰もが思っているに違いない。 では、健康に恵まれなくて、早くこの世を去られた方、この度のように、災害で命を奪われた方たちは余生が無かったと考えなければならないのかしら?
運がわるかった・・・だけでは済まされない。 
         

2011年6月11日土曜日

麻布十番辺り

下の妹が私の誕生日を祝ってくれるということで、目黒で待ち合わせて、地下鉄で麻布十番まで行き、そこから歩いてほんの5分くらいのところのしゃれたフレンチ・レストランに招待してくれた。 

麻布十番のメイン・ストリートから一本中に入ったレストランで二階だったので下の通りを見下ろせる静かな感じのレストランでお料理も繊細な感じのものだった。 「どうして、こんなところのレストランを知ってるの?」と訊くと「夫の仲の良いご友人が麻布高校卒業で、このあたりにくわしい」方からの、ご紹介ということだった。

食事が終わってからそのあたりをそぞろ歩くことにして、来る道すがら気になっていた”豆源”でいろんな種類の豆を求め、その店名が面白い”たぬきせんべい”でおせんべいを買って、あまり広くない横道を行き来した。そのあたりは、下町通りの感じで、おかしやさん、餃子やさん、履物専門店などを冷やかし半分で眺めながら行ったり来たり。 最近は私の住む千鳥町あたりでも、そんな感じの店が殆ど消えてしまった。

妹も夫さんの帰宅があまり早くなさそうだったので、夕方近くまでねばり、当初から目に入っていた”布屋太兵衛”こと”永坂更科!”で天御膳での夕食を済ませて”ハッピイ! ハッピイ!
この辺りは、六本木ヒルズに行くときバスで通り過ぎる場所だったけれど、ケッコウ面白い場所だった。 

ただ、欲張って友達にも…と思って買ったおせんべいと豆類の重かったこと!

2011年6月8日水曜日

八十一

まだ、若いころ、80歳過ぎた方方は完全に’おば~さま’だと思っていた。 自分がその年になってみると、特にがんばってるつもりはないが、おば~さま・・・とは言われたくない。 「お若いですね~、とてもそのお年にはみえません」というお世辞言葉に、しめしめ・・・と思う自分がいる。

八十才という代変りが過ぎれば次の代替わりまで、少し安心できる。  先日は京都の妹が早々のお祝いをしてくれた。 明日は下の妹が御馳走してくれるという。  ジムの友人も、甥も・・・少したってから~と言ってくれている。  私としては今日の日は、いかに過ごそうかと考え、先日小さな手術のため入院されたジムの仲良しのご長女が今日退院されると聞いたので、とりあえずそのことも兼ねて、お赤飯を作ろうと決心?した。
 
ところが朝、玄関先に赤いブーゲンビリアの鉢植えとカードがおいてあった。 時々ご一緒に帰るジムのお友達がお出かけ前において行ってくださったようだ。 今部屋の中にも花がなくさびしかったので、ご厚意に感謝しながら中に入れた。  せっかくお赤飯を作ったので、その方にもほんのおしるしに召し上がっていただこうと思いつきジムが終わった後、とりに来ていただいた。  少しずつ差し上げたつもりなのに、誕生日ご本人の分け前が少しすくなめになった。 「こんなのまでお作りになるの?」と感激してくださった事を喜びながらお夕飯に小豆のたっぷり入ったお赤飯と尾頭付きの魚の煮つけ、精進揚げ少々とほうれん草のおしたし
私の81歳のお誕生日の少しさびしいでも心温かいお献立でした。

八十一回目の誕生日!

2011年6月7日火曜日

木蓮

もう、すっかり花は枯れてしまったが、木蓮の花を見ると思い出すことがある。  今年はその色紙をその季節に飾るのをすっかり忘れてしまっていた。

その色紙はかの有名な伊東深水さんより頂いたものだ。  まだ、亡夫が日劇でプロディーサーをしていて、そのお嬢様を三人娘として売り出そうとしていたころ、お母上がお歳暮に深水画伯の描かれた深い紫色の木蓮の花を描いた色紙をお届けくださった。

その頃、以前住んでいた大森の二間の狭い部屋から、長い間お付き合いのあった、”伊藤英子”さんという私と同じ名前の方の21畳の洋間を模様替えさせていただいて住んでいた。 その家はかなり古く大きな歌舞伎門があって、お玄関も大玄関と内玄関があった。  

深水さまの奥様は、とても控えめな方で、頑として大玄関にお入りにならなかった。 芸者さんだったということだったけれど、とても頭の低いきれいな方だった。
よくは覚えていないけれど、色紙を丁寧に袱紗に包んであったような気がする。  私はわざわざお尋ねくださった夫のその頃の住まいが大きな門構えの200坪の屋敷?だったことに、ほっとしたことを思い出す。  その上表札は「伊藤」だったことも・・・・。  今、その屋敷は五階建のマンションが建っている。

これは、単に私が見栄っ張りだ・・・と思わないでくださいね!?

2011年6月5日日曜日

萌彩ちゃんとパパと・・・

昨夕、萌彩ちゃんが久しぶり我が家にパパと一緒に来ると電話があって、夕方訪れた。  十里木で遊んで、そんなに日にちが経ってなかったので、「大ばば~!!」とニコニコしながら車を降りて、私と一緒に家に入った。   妹たちの家族たちは私の家に入ると直ぐ私たちの両親と私の夫の仏前にお線香をあげてお参りをしてくれる。  いずれも、仏たちには会ったことがないのに・・・。 とても有難いことだと、私はいつも思っている。

二人はかわいいケーキとろうそくを立てて、もうすぐ迎える私の誕生日を祝ってくれた。 萌彩ちゃんはアレルギーが心配だったが、夕食は鶏のささみ、ごはんと納豆を喜んで残さず食べてくれて終始ハイテンションで部屋中(二階にも行ったりして)楽しんでくれてよかった。

妹の息子達の家族たちは成城学園に住む英里ちゃん里彩ちゃんのパパ、ママ達、京都の姪の家族も含めて、親族のない私宅を時々訪ねてくれたり、その子供たちは大ばば、と言ってなついて慕ってくれるので、私はホント幸せで有難いことと、いつも思っている。  私自身もどの子もホントかわいいと思うし、沢山の孫がいる気がしている。

2011年6月1日水曜日

諒ちゃんの泣き顔

先週の金曜日、久しぶりで京都の諒ちゃんがば~ば、とママと上京してきた。 私としてはお正月に京都で会って以来のこと、雨模様だったけれど、私の誕生日祝いも兼ねて、ということで富ヶ谷に行った。

玄関に入った私を見て、諒ちゃんは一瞬泣き顔になりそうだったが、すぐ笑ってくれた。 どういうわけか、妹が入って来たときも、これは明らかに泣きだしてしまった。 人見知りの一種か、ご挨拶の一端か?   でもすぐ笑い顔に代わって、招き入れ遊んでくれ?とせがむ。 階段を勢いよく上がったり降りたり、目の放せない運動量にさすが男の子!という感じ。 

ホント、子供好きの私は妹たちの孫たちになついてもらえて、嬉しいことこの上なし・・・。 先日は下の妹の長男の長女の萌彩ちゃんと十里木でシャボン玉をしたり、駆け回ったりして、パパやママが買い物に行っていた間、ちょっとも淋しがらずに遊んだし、その後は久しぶりで来宅してくれた英里ちゃん、里彩ちゃんたちとも、短い時間だったけれどその成長ぶりに驚きながら、楽しい時を過ごすことができた。 

子にも恵まれず、したがって孫とは無縁の私にも、大勢の孫がいるようで、おかげさま・・・と感謝!  今度はどの子と会うことができるのかしら、と待ち遠しい気持ち。

2011年5月28日土曜日

もう、梅雨入り?

今年は例年より早い’梅雨入り’だそうで、そう報じられたらすぐ雨! 五月のさわやかさは吹っ飛んでしまったようで、今日も朝から雨。 明日からは台風も加算されて、まだ冬物の整理も終ってないのに! というか、薄めのセーターをしまってしまわなくってよかった!・・・なんて思っているところです。

もう、あと、どのくらい永らえるのか?と考えながらも古い洋服を思い切って捨てることもできず、まだ洒落っ気も捨てきれず新しい洋服を買ったしまう。 洒落っ気があるということは、まだお若いんじゃない?と仰ってくださる方もあるかもしれないし、私自身も、多分その年?には見えないだろう、と自分でも思っている。  まだ、あと二、三年は’おばあさん”と言われたくないと思う。 でも、時はそんな私の思いとは関係なく、刻々と迫り、過ぎていく。  

2011年5月24日火曜日

ご無沙汰しました・・・

電力不足の折から、節電するため、ブログを書くのを遠慮していた・・・というのは表向きの口実で、実は少し飽きてきていた…というのが本音かも?

昨日はジムのお友達の絵の展覧会に行くため、そのお友達と千鳥町駅で待ち合わせ、東京駅の大丸デパート前で、もう二人の友人と会って、大丸の”ポール・ボキューズ”でランチをして、八重洲口近くの画廊でお友達の絵を見る。 私は昨年も見せていただいたので、二度目になる。  彼女の絵はヨーロッパの風景と海の絵の二点。 スコットランドの風景の絵は色彩も豊かで女性らしい細やかな絵だった。 海の絵は彼女も仰っていらっしたけれど海の色の変化を表現するのが難しかっただろう、と思われた。  

こじんまりとした画廊なので、飾られている絵の数はあまり多くなかった。 彼女の絵は伺ったところ、やはり完成まで、一年はかかったということで、一つの事を成し遂げる情熱を待てるのはうらやましいような、でも私には到底できないことだと思った。

2011年4月12日火曜日

那覇

那覇については、私たちの年齢では戦争中の思いがあるものの、私たちが行くのを決めたところは、首里城でそこへ行くのに御多分に漏れず長い坂道を上り、異国情緒?満点の首里城に入る。 どちらかというと日本の城の感じというより、中国か韓国のイメージが強く、かなりカラフルな感じ。 

ただ、米国に占領されていた期間があったので、道は広く、整然とした感じだった。 町を横切るように通っているモノレールが印象的だった。
にぎやかな通りにある大きなお菓子店で沖縄名物のお菓子をお土産にたくさん買った。 

最後の寄港地、新宮では那智の滝を見た。  小学校の修学旅行で訪れた記憶とはだいぶ異なり、石畳をしばらく下って滝壺から滝を眺めるのだが、私はその石段がつらくて、途中で見下ろして、失礼した。

以上、もっといろいろなところを訪ねたけれど、歩くのがだんだんつらい年になって、それでも一応妹達とアチコチ行けたのはしあわせだった。

気候もよく、運よく晴れた日ばかりで、ただ途中必ず水を求めてスーパー・マーケットに寄り、日本のはずれのどの都市でもペットボトル入りの水を求めることが出来ず、東京での異常な水戦争に驚き果てた。

大雑把に船旅の事を書いてみたが、飛鳥での何日かのクルージングの時間も有意義に過ごし、何しろ毎日のお食事がトテモ変化をつけてあっておいしく、バイキングの朝食の後、上のサロンでおいしいコーヒーをいただ着ながら外の景色をたのしみ、また、サービスしてくれるフイリッピン人の誰もがトテモ礼儀正しく、日本語もマナーも完璧でホントに気分がよかった。  私たち三人について、彼らは三人とも英語が話せるグループとして評価してくれたようだった。 

2011年4月11日月曜日

飛鳥の寄港地でどこが良かった?

・・・と友人たちから訊ねられた。

さあ?・・・最初の寄港地大阪も訪ねたところは初めてのところだった。  港近くの”海遊館”という水族館もかなり見応えがあった。  初めて行った大阪城も歴史的背景も加味して、その雄大さに感動したし、阪神優勝で何時もテレビで見る道頓堀付近の散策も楽しかった。しかし、私には、近くて遠い大阪だった。

次の寄港地岩国でのメインは錦帯橋だったが、テレビなどでおなじみの太鼓橋は五連のアーチの橋で登るのも大変! その上風がひどく私はようやく一つ登るのがせいぜいの感じだった。 向こう岸まで渡って戻って来た方々もあったが、私たちは近くのホテルでコーヒーを飲んで時間をつぶした。 聞くより見るが?・・・渡るが・・・?

厳島神社は以前訪れたことがあったので、感動も少ない。 ただ、その折は夫の従兄弟の奥さんが張り切って案内してくださり、夫と一緒の旅だった事を思う。 その後広島の従兄弟の勤めていた銀行の寮で(従兄弟がその銀行の役員だったのと、その銀行は伊藤家の親族が開いたものだったので、)かなり手厚いもてなしだったのを記憶している。

屋久島の印象は屋久杉が強い印象! 何千年もたった杉の切り口の大きさに感動! 穏やかな街並みが印象的だった。

2011年4月5日火曜日

’飛鳥’に乗船11日

地震の後なので、少し控え目に・・・3月21日から4月1日まで予定どうり、横浜港に向かったが、生憎、意地悪な雨。  これが二度目の飛鳥クルーズ。 以前は台風の後でいろいろ行く先がカットされたので、十分クルージングを楽しむことができなかった。

大勢の乗務員が入口で乗客をむかえてくれる。 それが、私たちの少しのうしろめたさを和らげてくれる気がした。 妹は二か月前に上の妹達夫妻と乗船したので、乗務員の方たちの中に顔見知りの方たちがいて、華やかに声尾をかけ合っていた。

初日の夜はベッドに入っても船体が時々揺れて、その揺れが地震を思い出させた。 
女性たちにとって、食事の用意をする必要のないことは、そのことに余り意識を感じない私としても、かなり幸せな感じ。 しかも飛鳥の食事はフレンチにしても日本料理また最近とりいれられた中華もかなり満足感を感じる。

少し日が長くなったせいか、夕食をいただくこころはまだ、外を眺めることができた。
クルージングを続けて、まず大阪港に翌日の夕方に入港。  京都に泊まるかたがたなどが一時下船。
その夜は夕食後ホールで音楽を楽しんだ。

2011年3月12日土曜日

SOFT SHELL CRAB

今日、ジムで仲良しのお友達が「Soft Shell Crab」 が御嶽山駅の傍の”オオゼキ”で売っているわよ、と話してくださったので、トテモ懐かしく?以前京都の義弟が、確か新宿の中華料理店でごちそうしてくれた?のが大変珍しく、その時の説明によれば、小さいかにが脱皮してすぐのもので、珍ちょうされるものだと聞いた気がする。

早速、昼食を済ませて、池上線の御嶽山駅の傍のオオゼキに行った。  土曜日なので店は(今はやりの言葉絵言えば`超混んで‘いた。   店の奥の冷凍室にシンガポールから輸入として、かなり無造作に重ねて置いてあった。 食べ物については特別の勘があると自負している私は200円のものを二つ買って、大満足!

料理法も友人に聞いておいたので、帰宅後夕食に片栗粉をまぶして揚げていただいた。  それほど、おいしい、とは思えないが、珍しいことと、久しぶりの対面にとても満足した。 こんなの買う人あまりいないよね? 

それでも驚いたのは、御嶽山駅あたりの混雑とお客さんたちがやや、焦っている感じ。 近くに駄菓子専門店? 果物専門店などがあって、ついつい買いすぎてしまった。  

SOFT

2011年3月11日金曜日

地震!!

こんなに大きな地震だなんて!
 
丁度その時買い物に行こうと千鳥町駅付近まで来たら、ゆらゆら~と横に激しく揺れた。  最初、私はめまいを起こしたのかしら?と思ったが、周りのお店から何人かがづ道路に飛び出してきて、地震!と思いかなり長い間揺れていたのと、電線も一緒に揺れていたので、少し落ち着いてから”サミット”に向かった。

通りすがりの方と「こわいですね~!」と言葉を交わしながらお店に行ったけれど、食品が散乱しているので、入店禁止になった。  仕方なくこわごわと歩いて鳥やさんに向かった。  またそこで一揺れ、少し話をして、落ち着きを取り戻し途中で会う方と話し合いながら家に向かった。 「きっと、お帰りになったら、おうちの中が大変よ」と途中ですれちがぅた方がおっしゃった。

恐る恐る、家に入った。  まるで、何も起こらなかったように、家の中は変わってなかった。  一安心、
だだ、家の中を見回して仏壇の中の亡母の位牌だけが倒れていた。 

少したって、ジムの仲良しのお友達が「大丈夫だった?」と見に来てくださった。  そのあと私が選ばせていただいた民生委員の方が様子をみに来てくださり、夕方ご近所のお友達から、そして今しがた成城学園に住む下の妹の二男のお嫁さんからもお見舞いと様子を尋ねる電話をいただいた。  有難いこと!

2011年3月10日木曜日

お久しぶり!

まだ五反田に住んでいたころ、何組かのお料理教室の生徒さん達に教えていたが、それぞれが違う方のご紹介で同じクラスでお教えしていた三人のかたがたと二子玉の高島屋で会うことになった。 そのクラスは、五人のグループだったけれど、一人は新潟に住むことになり、もう一人は若くして他界された。

東京近郊に住んでる三人とは何年かに一度お会いして、近況報告をしあっている。  その頃20代だった方たちが、今や60代! お互い年はとっても何十年か過ぎてもお互い心の通じた仲間なので、話が尽きない。
それでも、その方たちも年を取られたお母様の介護で、大変苦労していらっしゃるのをうかがって、ひそかに他人事ではない気がした。

お一人は夫のご両親とほぼ同居の状態で、何年か過ごし、見送られてほっとした感じ。  もう一人は結婚しないで、少し認知症のお母様を施設に入れられて、これからはご自分の老後のために、新しく仕事を始めなければ・・・という。 今更結婚も~・・・という感じ。  もう一人は(私もその方のご主人に英語を教えたりしていたので、よく知っていたが、TBSの子会社に勤務、仕事中にヘリコプターの事故で海岸で亡くなった。 ご実家で二人の御子息を育て上げて今はゴルフをしたりして、とりあえず無事に過ごしていらっしゃる。

主な話題は、「老人介護」の大変さ、そして施設に入れることに躊躇すべきではないということを結論ずけることとなった。 

これからは、一年に一回はお会いすることにしましょう、とお約束して別れた。

2011年3月7日月曜日

パソコン騒ぎの後は湿疹!

パソコンを買い替えたら、OCNからT-COMへプロバイダーを変えることになり? 訳も分からず、業者が来て屋外の電線工事、パソコンの移し替え(これも、技術者が来てくれて二時間かかって以前のパソコンからバックアップを取って、新しいパソコンに移し、それで終わったかと思ったら・・・昨日私が「お弁当箱」と称している変電気?の取り換えとパソコンへの接続をようやく終えたけれど、そのお弁当箱様なものをNTTのものからKDDのものへ変える作業が残っていて、それは自分でできるようだ。

MASHINを使っている、というよりは器具に操られている感じ・・。 

ーーーというところで、昨日下の妹から電話があって、夫が泊りがけの旅行に行っているので、園田家のお墓に行かないか、と誘いがあり、、久しぶりで妹の車で春秋苑に行きお墓がきれいになっていたので、安心した。 お彼岸前なのに、お天気だったので、墓参のかたがたも見られた。

せっかく墓参をしたのに、今朝は顔に湿疹ができて、何とも人に見せられない有様になった。  午後、何時も行く皮膚科のお医者さまに行った。 以前入院した池上の病院で作ってくれた「お薬手帳」を先生に見ていただいたら「もしかして、飲み薬が合わないかもしれませんね~」とおっしゃる。 ややこしいことになるのは~困る! それでも、毎年春と秋に決まって顔に湿疹ができるのはホント何か原因があるのかも・・・?

2011年2月23日水曜日

クライスト・チャーチ

私がクライスト・チャーチという都市名に親しみを持ったのは、今からおよそ50年前のこと。

その頃、今は亡き夫を黒田初子先生から紹介され、その翌年夫は会社の命令で、大勢の踊り子さん、越路吹雪さん、ジェームス繁田さん達とオーストラリア、ニュジーランドへ公演旅行に行ってしまった。 (まさに、行ってしまった、という言葉が適切だと思う)

結婚したのちも、台湾、香港、イギリスのロンドンなどへ行かされた後再びオーストラリア、ニュージーランドへ行く羽目になった。

夫は、ニュージーランドのクライスト・チャーチが気に入っていて「緑がトテモきれいだし、見せてやりたいよ!」と言っていた。 移住したいなどと、恐ろしいことも言ったりしていた。

夫が亡くなってから、一度、是非ニュージーランドに行こう!という思いが強くなった。  高校時代の友人とヨーロッパ旅行をしてしばらくして、その思いが実現できる機会が来た。

そのお友達が旅行会社にニュージーランド旅行があるわよ! と知らせてくれて、ただちに応募した。
夜ニュジーランド航空で、成田を発つて、翌朝クライストチャーチに到着。

11月だったので、ニュジーランドは春の盛り。 空港からバスで、桜咲く道をクライストチャーチで、ガーディニングで優勝した方のお庭を案内してくれるという、私にはトテモ幸せなクライストチャチの第一歩だった。 そんなに広いお庭ではなかったが、桜、桃の花が満開、地面には三色すみれ、私の好きな野すみれ、ドイツすみれなど所せましと咲き乱れていた。  あまり英語を話せる方がいなかったので、私は一人で、質問をした。 

そのあと、ホテルから歩いて、テレビの画面に出てきている、街と芝生の広い公園を通って、疏水(運河)のある場所に行き、手漕ぎボートに乗った。 その運河はロンドン郊外のケンブリッジ大学の傍の運河にそっくりで、たぶんそれを模したのだろう・・・と母国から移住した方たちの、英国に対にするノスタルジーを感じた。

そのあと、ホテルに戻る前、私が誘って添乗員さんも一緒に喫茶店に入り、うかつにも、私はその店に買ったばかりのデジカメを置き忘れた。 そのことは承知していたが、その夜も、翌朝も私は取りにいかなかった。
クライストチャーチへのお土産! そう思った。  その中にはロンドンで撮った写真も入ったいた。

私って、ヘン? 

2011年2月21日月曜日

イタリアン・レストラン

ジムのお友達がランチに誘ってくださった。  月曜日はジムがお休みなので、ジムのお友達三人で、バス停で待ち合わせた。 

そのレストランは五反田駅から歩いて五分くらいのどころにある。  先日京都から出て来ていた、姪の家族と下の妹と行ったファミレスの反対側にこんな素敵なイタリアン・レストランがあったとは・・・?

お昼時で、そのレストランはほぼ満員。 例によって、そのほとんどのお客が中年以上の女性客! それでも場所がよいことと、値段もそこそこなので、男性の姿も何人か・・・。

私たちはランチを注文したけれど、前菜は大きめの生ハム、野菜もたっぷりだった。  カニのショウト・パスタ、コーヒー、デザートつきで1850円は高くはない・・・と思った。  そのレストランが経営しているパン屋さんでパンを求めて、満足! パンはややハード系だったが、種類は多かった。

五反田も駅向こうにはいろいろ素敵なレストランもあるのを、何十年も五反田に住んでいても気が付かなくって、大分損した! その上、先夜、皆で夕食をしたとき知っていれば、よかったのに~。 姪と何年か前、五反田で食事するところを探したが、このレストランはその後にできたのかしら?  

ジムの食いしん坊友達のおかげで、いろいろレストランを紹介していただいて、嬉しいこと!

2011年2月19日土曜日

「最後の皇帝」の弟君の・・・・

今日の朝日新聞の夕刊に清朝「最後の皇帝」の弟、海越ゆる愛という見出しに目をとめた。

何年かに一回は清朝最後の皇帝の弟君愛新覚羅溥儀様の弟君、溥傑様と結婚なさった浩様の話題を見る。
偶然、私は浩様の弟様そしてまだ幼かった浩様のお子様方にお会いしたことがある。

浩様の弟様S様とは戦後流行っていた社交ダンスの会でご一緒だったし、その奥様とは私たちの仲人だった方の料理教室でご一緒で、その後もご一緒にドレスデン、ウィーンなどにも旅行したり、ときたま密にお付き合いさせていただいていた。 (悲しいことに彼女は一昨年急に御病気で亡くなった。  お会いしましょうよ~とお電話があって、それも叶わぬことだった。

今日の夕刊で改めて思い出したのは・・・その記事は溥傑様と浩さま(その頃はまだ国交がなく、溥傑様と浩様は中国と日本に別れて住んでいらっしやった)が交換なさったお手紙がM様方で発見された・・・という記事を見て、そのMさん、つまり浩様の妹様のご長女に私は何年か前、自宅でお料理を教えていた。  それも、かなり偶然の出会いだった。

浩さまが住まわれていたお宅にお尋ねしたこともあった。 そのお友達からいろいろニュースで報じられなかったお話もうかがったことがある。
 
あれから、もうずいぶん長い日が過ぎている~ 

2011年2月15日火曜日

雪が降って・・・・

昨日は珍しくかなりの雪。
  いい年なのだから?ジムに行くのはよそう・・・と思ったものの、しゃべる人もなくごちゃごちゃ身近な引き出しをかたずける。 何しろ、この暖かい部屋から出たくなかった。  

今日も雪解けで、滑ったりしたら~・・・と思って、家にとどまることに決めた。  
日が差してきたので、二階の和室の戸棚を整理することを思いつき、妙なものを見つけて、午前中はそれらを読みふけって過ごしてしまった。
一つは、学校時代の通信簿、小学校から高校までの成績表。  まあ~、まあ~・・・好成績とは言えないものの、とっておくものでもないと思って破り捨てた。
  
次に見つけたのは、20歳ころに書き留めた”小説” 書き殴りのものながら、ケッコウよく書けているというか、その頃翻訳ものや、日本人の作家のものもいろいろ読みふけっていたので、かなり古臭い言い回しが我ながら笑止。 今でも、時々、小説を書いてみたいと思うこともある。 

古い写真も子のない私はとっておく理由もないかと思いながらも捨て去る勇気はなかった。
それに、30年くらい前、サンフランシスコに住んでいた下の妹からのエヤー・メールの束もそのまま収めた。 

それでも、空き箱などもどけると可なりかたずいた・・・と私は思いたい。

2011年2月13日日曜日

今日は亡母の祥月命日

先のブログに書き忘れた!

今日は母が亡くなって、15回目の祥月命日だ・・・ということを記憶はしていたが、ブログに書いていなかった。  とりあえず、母が好きだった花束を買って、友人から頂いていた、珍しいお菓子を仏前に供えた。

午前中、京都の妹から電話があって、「今日はお母様の御命日ね?」と言っていたが、他には特にコメントはなかった。  長男からは何のメッセージもない。 長女の私が仏壇を預かっているのだから、少なくとも命日だけは、覚えていて、それなりのお供えとか、お花を仏前に供えなければ・・・と、今日は家にいようと思っていたが、駅前のお花屋さんに行って、いつもより少し華やかな花束を買って供えた。

自分も80歳になって、むろんアチラへの道のほうが断然近くなっているのだから、仏のことは、丁寧にするべきだと、思いはいても、在世の事?のほうが優先してしまう。 

母が隣と私の家の間を花ばさみと、切った花を持って、静かに歩いていた姿を懐かしく思い出し、15年前の最期の瞬間のことを、今は静かに、冷静に思い出すことができる。 ずいぶん年月が過ぎたような、ついこの間の事のような~・・・・。

kyou

ハロー?諒ちゃん!

昨日、京都から上京している、姪夫妻と諒ちゃんに会いに行った。
下の妹の夫が旅行中だったので、妹も誘い、雪にならないといいなあ~と思いながら富ヶ谷へ向かった。

私が妹宅への坂道を歩いていたら、偶然姪たちが道に立って諒ちゃんはパパにだっこされて、私を見て、嬉しそうにニコニコ笑ってくれた。  お正月に何日か一緒に遊んだので覚えてくれていたらしい。

姪が買って来ていた積木で、しばらく遊んで、昼食をいただいたころ、下の妹が合流した。  皆で楽しくお茶をして、夕食は私を車で送りかたがた家まで送ってくれた。

以上は、昨日の事で・・・・。 今朝、下の妹と電話中、割り込み電話がかかってきた。 「誰から?」とりあえず妹との電話を切って、その電話に出た。 「う~、う~」と聞き覚えのある声が伝わってきた。 「諒ちゃん?」と私が訊ねた。 また「う~、う~」と返事が返ってきた。 諒ちゃんからに違いない。 まだ一年八か月の諒ちゃんからの電話に驚いて、私は「お馬、ひ~ん、ひ~ん、 牛、、もう、も~も~、
鶏さん コケ~コッコウ!」と言ったら、また「う~、う~!」と何か言って、電話はがしゃ、がしゃと不規則な音で切られた。  

私は少しあわてて、もしほかの方だったら?・・・と思って折り返して電話した。
パパが出て、諒ちゃんからだという証明をしてくれて、安心した。  手近にある電話が気に入って、暗証番号が入っている私に電話したに違いない。 昨日も姪が110番にしないでよ!と言っていた。 どの子も一時電話に興味を持って、大人が想像できないようなことをしてしまうこともある。

2011年2月6日日曜日

ようやく、落ち着いたかな?

満期になった預金の書き換え、パソコンのセッテイング、などで何時もと違った人の出入り、しかも、いずれも一回では済まず、再度の訪問で少しイライラしていた。  しかも、このパソコンの代金が「間違って、とりすぎたので、お返しします・・・」とか、郵便局の通帳の入金ミスなど、いずれも相手方のミスのため、それらをすべてクリアーするのに、再度の訪問を受けたり、パソコンの販売店に行ったり・・・それらすべては私のミスではない!と言い切れる。

土曜日ですべて解決して、今日の日曜日は、逆に何をすべきか・・・静かで、やや退屈な日となった。
ぼんやり、テレビのBSでシャンソン歌手のエデッと・ピアフの人生とパリを映していたので、それからこれへと、思い出を~・・・廻らせた。

初めてパリに行ったのは、42年くらい前のことだった。 夫の仕事上、同行した演出家、振付師と色々なショウを見て歩いて、ホテルに戻ったのはいつも午前様だった。 私は夜出かけるときは、無理やり着物を着て行き、その着替えも15分くらいしかなく、今ではとても無理な話だ。 シャンゼリゼ通りを歩いていて、作り付けの帯が解けそうになったのも、思い出せば笑える話だ。 

パリのオペラ座で有名な振付師、ヌレエーエフ、その夫人のトップ、プリマドンナ(名前を思い出せない)と握手したのも、パリの思いだの一つ。  

2011年2月4日金曜日

パソコンを新しくしました

今まで使っていたパソコンの調子が悪く、どうにも回復できず、思い切ってパソコンを変えた。 最初に求めたものの三分の一の値段で手に入れることができた。

型は以前に使っていたFMVなのですぐに慣れると思うのだが、あまりにも機能が多くて使いこなすのが難しそう、それに理解力、記憶力の衰えも加わって来てるし・・・。  業者から紹介された技術者にセッティングをお願いしたのだけれど、私の理解力が鈍ったのと、必要書類の整理がいい加減だったので、今まで使っていたパソコンを引き取ってもらうのが、大変だった。 

私も若いころから英語お教えたり、華道を教えたり、料理の指導もしてきているので、教えるということは、我慢、辛抱、ということは、よ~く分かっているつもり、しかも私の年齢では・・・・。 ただ、この際感じたのは記憶力の低下、ということで、これは個人差があることだけれど、そのことで落ち込むことは否めない。 

はて、何歳くらいまでパソコンと闘うことができるのだろうか・・・・・? これからの私の挑戦! あきらめずに、見守ってください!

2011年1月30日日曜日

一度に色々なことが起きると・・・・

今年に入って、特に、一度に色々なことが起きると、頭の中で交通整理がつかなくって、イライラするだけでなく、滅入ってしまう。 すべて、自分一人で解決をしなければならないと言うことは、本人にとっては年と共につらく、重く感じられる。 

先日も、ホント、くだらないこと・・・、キッチンの引き出しが開かなくなって、(特に不自由なわけではなかったが)朝から夕飯後まで、時間がある限り色々な小道具(?)を使って流し台下の引き出しのつっかかっているものを何か?引っ張り出したいと焦りまくった。  京都から妹が出てきていて、一日目は高島屋に誘われ、二日目は。下の妹のお誕生日のお祝いを渋谷のレストランでする予定があったので、その間はしばらく忘れていても、帰宅してからは時間を忘れて引き出しと闘った。 

客観的なことが考えられず、近所のお友だちや、訪れた郵便局の方までも煩わせて、闘ったのだけれど、いずれも成功せず、仕方なく最後の手段、TOTOのサポータに電話をいれた。  翌日には係りの人が来てくれた。  何のことはなく、その職人さんは、懐中電気を照らして、一分もかけずに「箱が引っ掛かってました!」と応えて、マジックのように(その瞬間私にはそう思えた)引き出しはスラッと開いた。

出張料金と修理代で5025円払うことになった。 その瞬間!私は「助かった!」と思った。  それからしばらく経った今、「高いよね!」「馬鹿みたい!」と・・・。  だんだん、こういうことが多くなっていくかも・・・・・。

2011年1月23日日曜日

八十歳・・・今年は八十一歳?

少し前までは、八十歳と言えば、御隠居さん・・・という年齢!  先年のクラス会でも出席出来る方達はまだ、ハツラツ?というか、生活にも余裕あり、まだまだ元気で身内の方がたに面倒を見てもらう…という方はほとんどないように見えた。 

私自身は子もなく当然孫もいないので、時々動けなくなったら、どうしよう?と不安になって、寝付けないこともある。 でも私は可也楽天的な方なので、その時はその時さ!と思い直して暮らしている。

先日、何時ものジムで健美操のクラスに出て、一時間ほどのパフォーマンスが終わって、私もその日は可也キツかった・・・と思っていたが、何時もは私の前に席をとっている60歳台のお友だちがその日は私の横にいらっして、終わった後「伊藤さん、体やわらかいわね~」と仰る。 それを聞いていたもう一人のお友だちが「伊藤さん、主人が伊藤さんからのお電話に出て、伊藤さん80歳なのよ、と言ったら、お若い声だな~と驚いていたわ」とまんざらお世辞ばかりではないお二人からのコメントを頂いて、その日は鳥のように軽々と家に戻った。 

最近、スタジオに度々行っているので、60代くらいの男性の会員さんとも、お話するようになって、色々教えて下さるようになった。 当初、私は少し’お高く’見えていたのかもしれない。 私から話しかけたりするように心がけている。  

2011年1月15日土曜日

大騒ぎ!

「ふさ子よりハロー!」が継続不能のサインが出て、三日間パソコンと闘って、ややこしい事になってきてしまい、一時は停止しようかと思ったけれど、器械に負けるのもくやしくて、色々いじっているうちに、思いがけず回復した? 自分でも理解できないことで、ホント不思議な?玩具?

一時はパソコンを買い替える事考えて、果たしてこのパソコンは何時買ったっけ? とそれも思い出せない。
とりあえず今宵はブログを作ることが出来た不思議さ?

私のいい加減な性格が災いして、色々なことを記録していなかったこと・・・それもこの結果を招いた一つであるに違いない。  困ったことは23日の綾里教室のレシピーを作って印刷すること、だった。
あ~あよかった!

2011年1月5日水曜日

2010年から2011年へ

昨年12月28日から昨日、1月4日まで京都の妹宅で、過ごした。  

例年妹宅で新年を迎える事が慣例になっていたのだったが、昨年は11月に腸の手術をしたので、東京で一人の新年だった次第。

12月の29日には甥夫妻が萌彩ちゃんと来て、昨年京都へ引っ越して来た姪夫妻と諒汰ちゃんたちも加わってトテモ賑やかな歳末を過ごすことが出来た。 30日には、どうしても、もう一度行きたかった錦市場に甥夫妻と萌彩ちゃんと三人で目的を果たした。  以前もう一人の甥家族と訪れて以来のことだったが、相変わらず市場の中は満員でただ、ぞろぞろ流れに従って歩くしかなかった。 

それでも、近くのうどん屋で並んで待ってうどんをいただいたり、人ごみの中でも、なんとなく歳末らしい時間を過ごすことが出来た。 妹の夫がその日の夕食をご馳走してくれるということで、姪夫妻諒ちゃん達も加わって大騒ぎだけれたのしいイタリアンの夕食を頂いた。

大晦日の朝は、前日から降り始めた雪が思いもかけず大雪となり、文字通り銀世界。 甥達夫妻と萌彩ちゃん達は金閣寺に行くという。 私は以前雪の金閣寺を見ているのと雪の中を歩くのも・・・と思って遠慮した。

ところが、妹の夫が雪に飾られた歌舞伎門を撮ろうとして転んで右半身を打ってしまった。 お正月は病院もお休みなので、ぺたぺたと湿布をすることしかできなく、大分つらそうだった。 新年早々と言うわけではなかったので・・・と慰めたり、力ずけたり・・・ようやく4日に病院へ行くことが出来た。