2012年12月23日日曜日

少しご無沙汰いたしました

今の高校、私時代の女学校の親友から、メールで、私が最近ブログの書き込みがないのを心配してメールで「どうかなさったのでは?」とお優しいお問い合わせがあった。

ご想像のとおり、実は12月の6日から12日まで、五反田のNTT関東病院に入院して膀胱の手術をしました。  高齢者の尿検査で例年は潜血が2か3だつたのが、今回は5だったので、その翌日病院に行き検査の結果、膀胱に腫瘍があるということで、6日入院、7日手術(それは大したことも無く終わり)12日に退院しました。

その腫瘍が良性か、悪性かの結果は18日にわかります。   
一人暮らしと言うものは、ある意味、食事も自分勝手に出来るので楽なような、周り(特に下の妹に)いろいろ迷惑と言うか気を遣わせて、ほんとに申し訳ないと思っているしだいです。  近所の友人達もいろいろ助けて下さってホントに有難いこと。  
友人の一人が「妹さんが、姉にはいろいろ世話になったから・・・」と仰ってたわよ、と言うの聞くにつけ、独り、こぼれそうな涙をこらえたりしている。 



2012年10月28日日曜日

初めての甲府

先週の日曜日、下の妹が「夫が高校のクラス会で、長野県へ行くので、どっかに行かない?と誘ってくれ。、むろん私は毎日同じような暮らしをしていて退屈しているので、喜んで応じて「甲府へ行きたい!」と応じた。
妹はホテルの設定から行き帰りの乗車券など旅行社?のように調達してくれた。
有難いこと!
丁度先週の日曜日の事だけれど・・・。  朝から晴れ渡った上天気だった。
なぜ?即座に、甲府とこたえたかと言うと、実はまだ母が存命のころ、この自治会のバス旅行で甲府を選んだ時、私は熱をだして行けなくて、母が一人で参加して私の仲良しの友人が面倒を見てくれたという経緯がある。  それに、一泊として丁度良いと考えたから・・・。
朝、わりに早く出たので甲府に着いて県営?の広々とした会館で絵画を鑑賞。 多分、県が蒐集したものだろう、かなり見応えのあるものだった。

早目に、ホテルに入る。  ホテルの窓からは山並みの間に冠雪した富士山が見えた。 妹宅の十里木から見る富士山よりず~っと小さく、はるかに見えた。

温泉は天気のせいもあってトテモ込み合って、ゆっくりーと言うわけにはいかなかった。  
懐石風の夕食は、≪思いがけ以上のもの、季節のものを取り入れ、地域のものもあり、盛り付けも感じがよく。サービスしてくれた女性の態度もよく、わりに厳しい私たちも満足した。

2012年10月15日月曜日

2012年10月14日日曜日

嘘のような本当の話 3

それ以前だったどうかはっきり覚えてはいないけれど、吉田様の奥様が「この間三島さんが家へいらっしたときに、お嬢様の事(私の事)お話したら、テレてソファーから落ちたのよ!」とか刺激的なことをおっしゃる。
でも、それ以上勧めてくださる気配もなく私もだんだんその気になってきて、呉服屋さんに話したら、「平岡家の電話番号を教えてくれて、あちら様は御承知ですから、奥様が電話なさったら」と言う。  私は実はその頃、トテモ結婚したい方があってほんの少しだけれど、その方への見せしめ?もあって、母に電話するように頼んだ。

2012年10月10日水曜日

2012年10月7日日曜日

嘘のような本当の話

これは、偶然のことなのか?

平岡(三島)さんのお宅は緑ヶ丘にあり、私宅は大岡山だった。 緑ヶ丘よりは大岡山の方が文字通り少し土地が高く、緑ヶ丘から大岡山に来る途中には草の茂った境があった。  何年か前、そのあたりへ行ってみたら、驚いたことに道でもなく今もそのままみいの状態だった。

三島さん宅はその頃はやりだったスピッツ犬を飼っていらっして、私宅は茶色の駄犬を飼っていた。  わたしはある日犬をひっぱってその坂を下りて行ったら、スピッツを連れた三島氏らしい方とすれ違いざま、スピッツが猛然と吠えかかった。  私は驚いたのと、私が連れている犬が駄犬なので、急いでその場を離れたかった。

    
三島氏に違いない方は「これ、これ!」と言いながら草むらの方へ犬と共に入り込んで私を通らせてくださった。  「有難うございます」と言いながら坂をおりながら、今に方は?三島さんに違いない・・・と思ったけれど、立ち止まることなく足早にその場を去った。

2012年10月5日金曜日

嘘のような本当の話 2

私の20代のころの話、は決して作り話ではない、とことわって・・・・しばらく、書きつずけることをためらったけれど、もう時効のこどだし、周りを傷つけることも無いと思うので書くことにした。

京都の呉服屋は三島家(平岡家)が緑ヶ丘にあり、私宅は大岡山だったので、平岡家から私宅へ寄っていた。  その呉服屋さんが私のお見合い写真と釣り書きとを平岡家にお届けして、お母上が文箱におさめていらっしゃる、とのことだった。

吉田健一様の奥様は面白半分に(その頃’鉢の木会’という大岡昇平さんとか若手の方々8人が毎月会合を持たれていた)、笑いながらおっしゃったのは「お嬢様の事(私の事)三島さんにお話したら、照れてソファーから落ちたのよ!」と。

平岡家は私達の住んでいた大岡山から少し坂を下りてまた上がって広い道に出て緑ヶ丘へ行く途中にあり、私たちは緑ヶ丘に古くからのお知り合いがあったので、時々平岡家の前を通り、通りがかりに見るとはなしに、平岡家のお縁側に座って日向ぼっこをしていらっしゃるお母上のお姿を見た。  とても細くて色白のきれいな方だった。

2012年10月2日火曜日

2012年9月30日日曜日

嘘のような本当の話

ブログ投稿の設定がか変わって、少しためらっています。

毎週土曜日の午後9時からNHKで放映の「負けて勝つ」を見ていて、今から50年以上も前、毎週のように吉田茂さんのご長男吉田健一さんのお宅へお伺いしていたころのことを思い出した。  

そのお宅は市ヶ谷駅から歩いて5分くらいのところにあり、吉田家のご長男のお宅としては、思いもよらないほど、階下は一部屋の質素なお宅だった。 吉田家を紹介してくれたのは、京都から来ていた呉服屋さんの紹介で、私はその頃、ジャーナリズムに携わっている方と結婚したいという思いが強く、吉田家には文芸春秋社などに勤めている方々が集まるという話をその呉服屋さんから聞いていたので、是非紹介してほしいと頼み込んだ。

吉田健一さん奥様は大変気さくなお話し好きな方で、午前10時ごろお伺いして、お昼ごろまで。むろん私は聞き役だった。  文春にお勤めの方などは、むろん(その当時私の父は、富士製鉄所の常務取締役だったので)畑違いで敬遠された。 そのうち、健一さんの奥様が思い立ったように「三島由紀夫さんはいかが? いい、おぼっちゃまよ?」とおっしゃって、その頃書き下ろしの’美徳のよろめき’?というサイイン入りの新書を貸してくださった。  私はかなりびっくりした。  それまで、日本人の作家の小説は夏目漱石、、横光利一。堀辰雄の作品くらいしかよんでなかった。



2012年9月14日金曜日

お墓詣り

毎年、秋のお彼岸近くになると、亡夫方の甥から「何時多磨墓地へ行く?」と連絡がある。  

今年は、お彼岸も近いのに、まだ猛暑つずきだけれど、甥はアメリカに行く予定があるということで、帰国後よりは?と10時半に家の前で待ち合わせた。 白色のコンパクトな感じのベンツで来てくれた。 

途中の道もわりに空いていて、12時ごろ墓地近くのお茶屋さん{米内屋}に着く。 彼岸近くとはいえこの暑さとウィーク・ディなので墓地はガラガラの状態。  車で家から墓地まで一時間半以上はかかるので道々、甥のササンフランシスコに住んでいる一人息子の家族の話を聴く。 多磨墓地は大変広く、古い墓地なので、入口から車でも5分以上かかる。 私が車の運転をしていた時は夫を乗せたり、夫の妹も乗せてあげたりしていたけれど、車の運転をしなくなってからは、甥の車に乗せてもらえなければ、たぶん墓地まで行くことは年と共に難しくなるだろう。
一年に一回の墓参だけれど、多磨墓地は周りの景色は変わらないが、周りのお墓も所有者が変わったり、あたりの道も少しは歩きやすく舗装されていた。 

甲州街道沿いには洒落たレストランもなく、何時も’こうべや’で少し遅めの昼食をすることに決まっている。
暑さのせいもあって、帰宅したら何もする気がしなくなって、夕食は有り合わせを少し工夫して済ませた。

2012年9月4日火曜日

親友とは?

今日、女学校の高学年時代から仲良くしていただいているお友達と彼女のお誕生祝いをするために渋谷でま待ちあわせした。 渋谷は私の卒業した青山学院に近く、むろん私のテリトリーだと思っていたが、新所沢に住んでいらっしゃる彼女も時々御親戚と待ち合わせをなさるとか?

12時にお待ち合わせをして、お別れしたのは驚いたことに、午後7時だった。 昼食をとりながら話して、その後途中のベンチでしゃべり、喫茶店でまた話し、話は尽きることがなく、気ずいたら夕方の7時だった次第。

思い出話から、彼女の最近亡くなられたご主人のこと、二人とも育った環境が似ていたので、それぞれを受け入れるのが容易だったのかもしれなかった。  それでも女学校時代、彼女は特に理系が優れていらっしたので、私はついていくだけだったような気がする。 彼女は数学、化学に強かったので、東京女子大の理数科という、私には想像もつかない道を選ばれた。  私は文系と言えば響きはいいが、”英語”しか好きな学科がなかったので、青山学院の英文科と日本女子大の英文科を受験した次第。  最初から水をあけられていたけれど、チョットのみじめさもなかった。 彼女は高校時代、劇の主役をなさったり、私が一年先に卒業した後(都立の女学校は、当時5年生で卒業する人と、もう一年残って高校にとどまるクラスとがあった)。 彼女は優秀だったし、高校に残る道を選ばれた。  私は早く学校から離れたくて、専門学校の道を選んだ。 (目が疲れてきたので,今晩はここまで・・・)

2012年8月9日木曜日

自分史?

突然の電話で、自分史についてご説明したいので明日午後1時ごろお伺いしてよろしでしょうか?とのこと、半信半疑だったが、一応話を聞いてみることにした。  
午後1時ということだったが、現れたのは3時ごろ。  

私に自分史を作ることを進める根拠と理由は明らかにせず、私のブログを見て、自分史を作ることを勧め、その方法としては、口頭で自分の今まで生きてきた生きざまを編集者に話し、それを本にまとめて自分で友人や親戚に、差し上げたり、売りつけることが目的だということが、話をしているうちに明らかになった。  丁度その時ご近所のお友達が見えたので、入っていただいて内容をさらに確かめた。

私は自分史を作るほど大した生き方をしたわけでもなく、自分史を残すべき子孫もない。 友人は、ただ黙って傍にいてくださっただけだったけれど、私はきっぱりお断りする力というか助けになって下さった。 新手の商売だな~と思うとともにブログを書くことも考えなければ・・・と思った。

そう言えば、以前、国鉄の理事だった叔父がそんな本を発刊した覚えがある気がしてきた。 私もえらく?なったもんだ!

2012年7月10日火曜日

突然の悲しいお知らせ

ジムの帰りに東急ストアーとその近くの量販店に寄って帰宅。  今日は歩くことが多くなりそうだ・・・と独りで決め込みながらお昼を済ませ駅近くのスーパ・マーケットに行って買い込み帰宅。

ジムの友人から電話がかかってきた。 これから行っていい? という電話だと思ったら、何時も仲良くしている友人のご主人様が亡くなった・・・という記事が新聞に出ているとのこと。  あわててその友人に電話をしたら、先週の金曜日?急逝されたとのこと。  知らせてくださったお友達と、とりあえずお悔みに伺うことにした。
実は私は今日は歩きすぎて疲れていたけれど、ともかくお慰めとご様子を・・・。

お友達は意外に落ち着いていらっした。  お話を伺ったところ、ご主人様は葡萄酒を沢山飲まれて、お家の横の道でお顔から転び鼻血が止まらなくなった、ことが要因だったらしい。 ウァファリンをのんでいらっしたのが致命傷だったのか? 鼻血が止まらなかったとか。 私も夫で経験しているが、不審死の場合、大塚の病院で解剖に付される・・・という経験を余儀なくされたのだろう。  淡々としてお話になっていたけれど、(私と同じ)悲しさを覚えるのは百か日経った頃、その頃友人が必要なのですよ。

ニューヨークに住んでいらっしゃるお嬢様とそのアメリカ人のご主人さまが、つらそうにそばにいらっしたけれど、「どのくらいここにいらっしゃれるの?」英語で伺ったら「2,3週間」とのお返事。 悲しいこと。

2012年7月8日日曜日

今日は久が原南自治会の防災訓練

もう、今年で何年になるだろうか? 私が南自治会の副会長をしていたころから、仲間の副会長の一人の提案で、自治会間の隣の公園で毎年自治会主催の防災訓練を行っている。  ひと月くらい前からそのことを、自分の車を運転しながら広報してくださる方がある。

今朝は当初小雨が降っていたものの、次第に晴れてきた。  今まで遠慮して体験したことがなかったが、初めて耐震車で震度7の経験をした。 それこそ近くにあるガスの元栓をしめるなど不可能で、とりあえずちゃぶ台もどきの下に潜り込んで耐えるのが精いっぱい!  次に会館の二階で自治会に備えている心臓の器械の使い方の説明をきく。  今まで何度も学んだはずだけられど、大人の場合、みぞおちを両手を重ねてかなり強く押すこと。 隊長らしい方が特に私に向かって、赤ちゃんなどは人差し指と中指を重ねて軽く押します、と・・・私には思い起こしたくないことを言う。 たぶん私は少し引いた顔をしたに違いない、思い起こしたくないことを・・・。

そのあと、恒例のポンプ操法が、最初は自治会の消火隊の方たちが、次に消防隊員が目標に向かって意気よく放水して、すべての作業終了。 
見学の方々もかなり多く、この私達久が原南自治会の訓練は他に類を見ない大がかりな訓練で、地域の見本になっていると、久が原地区の出帳所長さんの話。 毎年御苦労してくださる係りのSさん、Iさん有難うございます。

2012年6月15日金曜日

朝から大騒ぎ!

オウムの高橋容疑者が蒲田で捕まったという報道が朝8時半ごろあったので、ジムに行くのが少し遅れたが、ジムに行ったら、川崎から蒲田へ行ったという報道で、場所が近いこともあってジムではその話でもちきり。

何しろ9時近くから取材のためか? ヘリコプターが何台も空を舞っていた。  ジムに行ってからも、ヘリコプターの騒音が絶えない。 

あの騒動の頃、家の近所に関係した人が住んでいたので取材のために迷惑を受けた人たちもあった。 今では何事もなく周りも、そのことを忘れたり、忘れようとしたり、そのご家族の方々が海外に行かれたり、引っ越されたりで、そのことを記憶する方々も少なくなったと思う。 世に「罪を憎んで、他人を憎まず」という教えがあるが、その時も家の周りの方々は、ただお気の毒にね~と話し合ったことだけれど、犠牲になった方々とかそのご家族は一生忘れられない思いで過ごしていらっしゃることだろう。

お隣に引っ越していらっした方は、30代の方なので、あまり事情が分からないらしく、あまりにも多くのヘリコプターの音に「怖いわ~!」と言っていらっした。

2012年6月11日月曜日

皆さま、御馳走様!

私の82回目の誕生日にそれぞれからプレゼントを頂いたり、おめでとうの電話を頂いたり、食いしん坊の私のために、ごちそうしてくださったり、今年は特にモテモテでした。

先週末は下の妹が目黒でご馳走してくれて、今日は京都からたまたま上京している上の妹夫妻が、富ヶ谷の行きつけのフレンチ・レストランでお昼と言ってもゴージャスなフレンチを御馳走してくれた。
  
これで、いよいよ、体重を落とそうと決心していた私は当分不可能となった。 美味しいものを頂くということは私の生き甲斐なので、明日からは少し考えようかな?・・・と思いながら、夕食はあまりもので済まそうと思ったが、なかなかそうもいかなくなる。  

ずっとつずけている料理教室も雨の中買い物に行かなければならなかったのが先月と今月の二か月つずき、少し疲れたので、7月・8月はお休みすることに決めた。  生徒さんたちが少しがっかりなさったようで、申し訳なかったかな~と思ったりした。

2012年6月7日木曜日

有難うございます!

今朝、10時ごろ玄関のベルが鳴って、ジムのお友達が大きな荷物を運び入れてくださった。 「どうなさったの?」言ったらお答えもなく大きな包みの紙を取り去りながら「お誕生日でしょう?」とおっしゃる。

筒状の大きな包みは丸太ん棒のようなものでジムでは、その棒の上に背中を載せて横たわり体操をしたして使うのだけれど、私は皆の前でそうするのはためらわれる体型なので、何時も見守るだけだった。 それでもパソコンで求めようとしたけれど、わりに高価だったのであきらめた経緯がある。 

その事実をお話したことがあったかしら? とまれ、彼女はその筒状の棒を置いて「後でジムにいらっしゃるでしょう」と出て行かれた。 

ジムから帰宅して、その筒状のものの上に横たわろうと何度か試みたけれど、かなり難しことが分かった。 ジムで恥かかなくってよかった!  そのうち必ず上手に使えるように訓練いたしますから・・・。  それにしても、よく覚えていてくださった!と感謝しきり~!

2012年6月5日火曜日

少し早目のお誕生ランチ

何時もジムで仲良くして頂いているお友達が少し早目のお誕生日ランチをしてくださるということで、バス停で待ち合わせて、代々木駅近くのイタリアンにお誘いきださった。  彼女は二人お年頃?のお嬢様がいらっしゃるので、今までもいろいろなレストランを紹介していただいている。

今日お連れ頂いたレストランは代々木駅から歩いて2分くらいのところにあり街中なのに入口あたりは珍しい植物が植えてあった。  レストランは天井が高くとても明るい雰囲気で、、サービスする人たちの態度もよかった。
出てくる料理は前菜からシンプルな飾りつけで、途中、スパゲッティがでたので、ああ、ここはイタリアンなのだとおもった。 メインのお肉も幾何的なカットと飾りつけなので、ここまで行くと少し食欲が落ちるかな? でも、今度は妹達と来てもいいなとも思った。

お友達が前もってお店の方におっしゃっていたらしく、デザートの時に「今日はこちらのお客様のお誕生日だそうです」と報告したので、一斉の拍手があって少し照れた。

2012年5月27日日曜日

凛ちゃんの四十九日

速いような、長い日にちが過ぎたような、昨日は凜ちゃんちゃんの四十九日法要の日。

大宮の古いお寺で、近しい親戚が集まって、凜ちゃんとの最後のお別れの法要が行われた。   両親も少しは落ち着いた感じだったが、たぶん悲しみは、日々募ることだろう。  

その後、大宮のお寿司やさんで精進落としの会食があり、凜太郎ちゃんのお姉ちゃまも従姉妹の英里ちゃん、里彩ちゃん達と楽しそうに遊んでいた。  おねえちゃまもお家に帰ったら淋しくなるだろうな~と思われた。
、三人の娘たちは僧侶の読経の時もそのあとの難しい講話の時も身じろぎもせずにおとなしく聞いていたのには感心した。

帰りの車の中で、リサちゃんが「大ばば(私は彼女らに、そう呼ばれている)これあげる、と車の中で一生懸命書いたと思われる紙切れを渡された。  たどたどしい字でこう書いてあった・・「おおばばへ(ハート・マーク 今日はー(ハート・マーク)りんちゃんが いっちゃう(ハート・マーク)からさみしいね りさより・・・とある。 帰宅してそれを見て、また涙した。

過ぎし日に小さな棺に入った凛ちゃんが、扉の中に入り、その後お骨になって、皆でお骨ひろいをしたことも覚えているのかしら?  何とも残酷なことだと思い、彼女は彼女なりの理解を一生懸命しているのだろうか?

2012年5月20日日曜日

偶然なのかしら?

先日、女学校時代から仲良くさせていただいたお友達から、ピンクの洋服を着たかわいらしい天使のステンドグラスのお人形が送らて来た。(彼女のステンドグラス制作術はトテモすばらしいものだ。) 

私のお誕生祝にしては早すぎるし? 昨年、亡くなられた彼女のご主人さまにお参りした時の’お返しに” 時間をかけてお作り頂きお送りくださったものと解釈していた。  その天使はピンクのドレスを着て、手に花束を持ち背中に羽をつけて、裾は風になびいて、今飛び立たつ・・・という感じだったので、そのかわいらしさと、丁度今天国に飛び発とうとしている凜太郎ちゃんを結び付けて私は思わず涙した。

凛ちゃんもこんな可愛らしいガール・フレンドと一緒だったら・・・と思い彼の写真の傍の壁にかけた。
友人のホントの思いは?  とりあえず私は自分の解釈を正しいと考えた。  少なくとも49日が過ぎるまでこのままにしておくつもり。 彼女もそのことを認めてくださるだろうと信じて・・・。

2012年5月13日日曜日

母の日・自治会総会・料理教室

母の日は母になれなかった私には残念ながら無縁。
  
久が原南自治会の総会は年に一度の事、しかも私は過去15年間も(その頃は会長もはっきりしなかったので)式次第の作成、衛生整備部担当の副会長としての報告等々緊張した何年かを過ごした。

最近は男性の副会長も増えて、パソコンから壁の画面に年間の収支報告を映し出して説明をしたり、かなり現代的?になってきた。 総会への出席者の数も増えたし、質問の内容も的確になってきたと思う。 11時半から料理教室の生徒さんたちがいらっしゃるので、総会が無事に終わることを祈った。 ただ、担当部門の副会長の報告が印刷物を読み上げるだけだったのには私の担当だった部門だけに、やや、不満。

時間を気にしながら、久しぶりにお会いした方々とゆっくる話す間もなく、お頼まれしていた議事録署名人の欄に署名・捺印して部屋を出ようとしたら、会員のお一人が「高峰秀子の流儀」という分厚い本を「これお読みになって下さい」と差し出され、もう一人の友人も「私もお貸ししたいと思ってました」とお二人で競い合っていらっした。

 私はそれより11時半近くになってしまったので、料理教室の生徒さんをお待たせしては・・・という焦りがあって、貸してくださった方のお名前も知らない。 「お持ちください!」とやや強引に競って渡され、一方、私は議事録署名人にされているので、署名・捺印をしなければならず、時間を気にしながら焦りまくった。
逃げるように帰宅して、5分ほどたって生徒さん達がいらっしてほっとした。

2012年4月24日火曜日

凛ちゃん、安らかに・・・

あれから、二週間、長い日が過ぎたような、つい最近のような・・・彼は今天国への階段を登って行っているのだろうか?

こんなに小さい子の葬儀に出たのは初めてのことだった。  安らかに・・・。
甥たち家族は浦和に住んでいるので、近所の葬祭所でお通夜が行われ、ひどい雨にもかかわらず、150人以上の方々がお通夜の弔問に来てくださった。 我が子をわずか5か月で失った甥とその嫁の悲しさは口で言い表すことはできない。 言葉をかわすことさえ、はばかられる。 

母親は、小さな棺の我が子に何度も、何度も顔をつけて涙を流しながらほほずりをしていた。  父親である甥は喪主でもあるわけで、弔問に来て下さる方々に気を遣わなくてはならず涙を流すのを見たのは、通夜が過ぎ葬儀が始まった時、初めて涙を流すのを見た。 

こんなこと、こんなに小さい棺を見たのはホントに初めての事、神様!何があって、こんなに小さく、清らかな子をお召しになったのですか? 彼はこんなに短い間にすべえの事をし終えたということでしょうか?  教えてください!

2012年4月23日月曜日

こんな悲しいことが起こっていいものだろうか?

4月10日の朝9時に、小学生のころ2年間、両親がアメリカへ赴任していた間、私宅で預かって小学校へ通っていた甥から、電話があった。「R。が今朝、亡くなりました」と・・・。

電話はすぐ切れた。 「何言ってるの!?」私はしばらく理解できなくて、茫然としていた。  祖母である下の妹にすぐ電話した。 その朝、突然、甥が抱き上げた時には亡くなっていたということだった。 妹のすすり泣く声にわたしも事実であることを信じざるを得なかった。  

先日、お姉ちゃまの卒業式が大崎広小路のユーボートであったので、下の妹と二人で預かって少しの間楽しい時間をすごしたのが、彼との最後の時間だった。 黒目がちの目で私をじ~っと見つめてくれたのは?

余りにも突然のことだったので、甥とその嫁の悲しみはいくばかりか?  
私は彼の写真を置いて、49日まで、お水を供えて、冥福と心静かな昇天を祈るつもり。

2012年4月8日日曜日

さくら

今年は、気温が低いせいか、風がないせいか桜の花が長持ちしている気がする。
例年特に桜を見に行くこともないけれど、今日は桜が満開ということと、特にしなければならないことも無かったので、ご近所のお友達を誘って、あたりを散策しながらお花見をしようと、当てもなく歩いているうちにバス停が近かったので、田園調布に行ってみよう、と話がまとまって、途中の桜も見ながら田園調布に向かった。

駅前から放射状にある道も秋のイチョウはかなり見応えがあるが、桜は?といぶかりながらバス停から今まで歩いたことのない道を歩いていくと東急線を見下ろす坂沿いに、見事な桜並木を見つけ、友人は写真を撮りながら、殆ど満開の桜を楽しんだ。 行きかう人々もゆったりと頭上の花を眺めたり、立ち止まって写真を撮ったりしていた。  後でお隣の奥様から伺ったところによれば(多分?)この道は福山雅治?さんが歌っている’桜坂”ではないかしら?  それほど込み合ってはなく、友人と”お茶”もするこもなく、少し歩き疲れたがお互い充分 ”サクラ”を楽しんだ午後を過ごすことができた。

2012年4月1日日曜日

疲れた!

いろいろなことがかたずいて、今日は今年三回目の料理教室。

お天気はいいのに朝から疲れて、いまいちやる気が出ない。  年を取ると疲れが出てくるのが遅いというが?   昨日ジムの帰りに一旦家に戻らず今日の料理の材料の湯葉を求めに雪谷まで行った。  また出直すのも面倒だったので、いろいろ材料を求めてかなり重くなったのに加えて、バスを降りたら春の嵐! 雨あしが強くたたみ傘は折れそうだったので傘を閉じたり開けたりしながら人っ子一人居ない坂道を情けない思いで家に文字通りなだれ込んだ。  料理教室をつずけるのも、難しかな~と思いながら・・・。

ただ、遠路通ってくださる生徒さん達は今日も喜んで通ってくださる。

何しろ、隣の空き家の修理が意外に長引き、なるべくかかわりを持たないように努めたものの、要所要所には業者との交渉が必要になり、時を待たずに入居してくださる方を決めるためにまたその方面の業者と交渉を持ち、支払などは一部下の妹に助けてもらったが、やっとこれで終わり!と思ったらちょっとした付帯工事が必要とになり、新しく入って下さる方が早めに決まったものの、そのご家族が上海から~帰国される方ということで、気を使うこともあった。

その間にも、関西に住む友人が上京されたので、一日お付き合いをし、京都の妹と大泉学園の易の先生宅に行き、また帝国ホテルに招いていただいたり、そしてようやく業者との最後の〆が昨日終わった。  何しろ私自身も年取ってきて物忘れがひどいのに、担当業者がピリッとしてなくて、最後の判を押すのも「ここ、割り印でしょう?」と私が指示する始末。  あ~あ、やっと終わった!という感じ。

2012年3月28日水曜日

春は忙しい…一日が早く過ぎてしまう

昨日は大泉学園の易の先生宅を京都から上京してきている上野妹とお尋ねして、戻ってきたのは夜八時過ぎ。

今日は京都の妹夫妻が妹と私を先日の渋谷の妹達宅の建て替えのためのかたずけを三日にわたって手伝ってあげたお礼ということで、帝国ホテルのフレンチレストランに招待してくれた。

帝国ホテルは京都の妹の夫が定宿にしているので、サービスするスタッフもかなり気を使っている様子だった。 今まで地下のレストランとか入口近くのカジュアル・レストランとかしか食事をしたことがなかったが三階のフレンチ・レストランは料理といい、スタッフのマナーとか、料理の内容、飾りつけ、なども、さすがという感じだった。(私のオーダーした牛肉は少し硬かったけれど、飾りつけもパンがそれぞれの料理に合わせて焼いてあるとか、前菜の入れ物も工夫がしてあったり、今日は”さすが!”と言ってもよい…感じだった。

その後、妹達二人と入口のティールームで冷たいジュースを頂きながら昔話など話しながら時間を過ごした。
帰京する上の妹を送りがてら東京駅まで行って「家に着いたのは7時すぎていた。
 
帰宅後、易の先生からの電話で知ったことは、今日は午後4時?ごろから各界(歌舞伎、日本舞踊、和楽器などの有名人たちが集まってて演奏、実演をする会が行われる日だった由。  居ずわれば各界の有名人が見られたかも?

隅田川とスカイ・ツリーと浅草と・・・

以前ジムのお友達と京都に行った時、雨の中をいろいろご案内頂いた方とそのお友達がお二人、上京されたので、今週の日曜日今度はジムのお友達とお二人を東京案内することになり、浅草の雷門前で待ち合わせた。  私は以前行き慣れていた浅草なのに、申し訳ないことにだいぶお待たせしてしまった。

日曜日で、春休み中、しかも久しぶりの晴天だったので浅草はごった返し、参道を歩くのも大変なさわげだった。  友人の案内で雷門近くのロシアン・レストランに行ったが安いのに、品数も多く、かなり満足できる料理だった。 何年も通つた事のある浅草なのにこんな店があることは今まで全然気が付かなかった。  

そのあと、今話題のスカイ・ツリーがよく見える隅田川河畔に出た。  テレビで何度も見たスカイツリーが近くで見てみると意外に野暮ったく私には見えた。  私の結婚した年に建てられた東京タワーの方が私にはすっきりとして美しいと思えるのは?

その後、上野に出て東京駅に出て、大丸の日本茶の喫茶店でおしゃべりをしながら、それぞれ違った好みの日本茶を飲んで、たちまちお別れの時間になってしまった。  ホントにいい出会いと楽しい初春の一日だった。

2012年3月23日金曜日

新しいお隣さん

昨年の12月25日に長い間住んでいてくださったお隣さんが引っ越しされて、そのあとアチコチを修繕しておよそ三か月ぶりに、新しいお隣さんが入って下さることになった。

そのご家族はご夫妻とも39歳で女の子と男の子一人ずつとのこと。  今日は朝からあいにくの雨。  ひとまず奥様だけが来られて、ご主人とお子さんたちは、まだホテルにいらっしゃるとのこと。  上海から帰国されたと聞いていた。 書道教室を早めに切り上げて、伺ってみたら、奥様だけ荷物を待ちながら一人でぼっんと部屋にいらっしゃるようだった。 下の妹が「お姉さまは、面倒みすぎるから、気を付けた方がいい」と言っていたけれど、私はとても気になって、あまりごはんでお結びを作って、少しおかずをつけて、お昼にもっていってあげた。   上海から荷物が着くのを待って、何も用意がないようだった。

大きなトラックが二台着いたのは午後三時すぎていた。  聞いてみると、荷物を待っていて、ペットボトルのお茶しか手もとには無いようで、とても感謝された。  明日、ご主人とこどもたちとご挨拶に伺いますとの事だった。

2012年3月5日月曜日

震災と釜石と亡き父と・・・

今年になって何回もブログを更新しながら、途中で止めてしまっていた。  見てくれている方がないのではないか?とか、私自身も飽きたというか・・・。

今日の朝日新聞の朝刊の社会面に ’旅立つか残るか18の春’という紙面半分をさいての記事を見て、「ああ、あの釜石が・・・”と亡き父のことを思って・・・・

父が戦後何年か経って、当時の富士製鉄所(後の新日本製鉄所)釜石製鉄所の所長として(当時は四人の子供たちの学校の事もあって)、単身赴任していた。 戦後の鉄は宝の時代の事。 華やかで、父はその頃、産業の少なかった東北地方で、「多額納税者として、新聞に名前が載った・・と少し照れながら言っていた。

東京がら釜石までは、途中乗り換えなどもあって、可なり時間がかかった。  花巻で一泊して、釜石まで単線の石炭列車でトンネルを過ぎると急に美しい海が見えた記憶がある。 その海が・・・? (戦時中、その海岸に米国の軍艦が来て、艦砲射撃を受けてとかいうことは、当時の私たちは知らなかったこと(戦後、大分経ってから、家に来ていたお手伝いさんから聞いて驚いたことがあった)

新聞の記事に戻るが、多くの方々が津波で家族を失われた。 その中で、祖母を亡くされたSさんは釜石を離れる方々が多い中で、お父さんと同じ新日鉄釜石製鉄所で働くという。 「友達が出ていくのは寂しいけど、俺がこつちを守っとくから、いつでも帰ってこいってかんじ」親子2代の新日鉄マン。その父は言う「体はゆるくねぇけど、町で一番伝統のある会社。 息子が入るのはうれしいね」  町にはもはや、「鉄と魚の釜石」として栄えた面影はない。  更に、避難所で多くのボランティアと接した経験からKさんは社会福祉を学ぶため関東の大学へ進むという。 「震災で知った友情や思い出の大切さ。 形のないものは,流されなかった。 だから、どこさ行っても気持ちは釜石にあるって、自信があんだ」

二人の女性記者さんの書いた記事。  私は一度しか釜石を訪れたことはなかったが、文字どおり‘鉄と魚の町’。  それでも少し船で行くと’浄土ヶ浜‘という文字通り浄土を思わせる美しい島があった。 今はどうなっているのかしら?
  
一日も早く昔通り復興しますように!  それに、何人かお手伝いさんとして私達の家に来ていてくれた方たちは無事だろうか?

2012年1月13日金曜日

今年もよろしく!

今年もよろしく、と書きながらいつの間にか?今日はもう明けてから二週間ほど過ぎてしまった。
もしかして、私のブログを見ていてくださる方が、まだ?あったとしたら・・・・? 大変ご無沙汰いたしました。

例年、年末から京都の妹宅で新年を迎えることになっていたのですが、信頼している易の先生が「今年(昨年)は西の方角は行かない方がいい、と言われてこちらで過ごすことにしたわけ。  

少しのんびり過ごすつもりが、昨年末、姉妹三人が権利をもって借家にしているお隣さんが引っ越しされたので、あとの方を探さなくてはならなくて、新年から何とも気忙しく落ち着かない毎日を過ごす羽目になった。
それに加えて、京都にいる、上の妹達の渋谷の家も建て替えをすることになり、今年は早々から家の事で、忙しくなりそうだ。