2012年1月13日金曜日

今年もよろしく!

今年もよろしく、と書きながらいつの間にか?今日はもう明けてから二週間ほど過ぎてしまった。
もしかして、私のブログを見ていてくださる方が、まだ?あったとしたら・・・・? 大変ご無沙汰いたしました。

例年、年末から京都の妹宅で新年を迎えることになっていたのですが、信頼している易の先生が「今年(昨年)は西の方角は行かない方がいい、と言われてこちらで過ごすことにしたわけ。  

少しのんびり過ごすつもりが、昨年末、姉妹三人が権利をもって借家にしているお隣さんが引っ越しされたので、あとの方を探さなくてはならなくて、新年から何とも気忙しく落ち着かない毎日を過ごす羽目になった。
それに加えて、京都にいる、上の妹達の渋谷の家も建て替えをすることになり、今年は早々から家の事で、忙しくなりそうだ。

2011年12月31日土曜日

2011年も今日で終わり

2011年・・・今日は大晦日、今年も今日で終わり!
 
年を取ると、一年がだんだん速く過ぎ去っていくように感じる・・というのは誰でも思うこと。 
むろん私も例外ではないのだけれど、今年という年は個人的には、平穏無事と言ってしまえば、その通り。 有難いことと思わなければいけないのだろう。

平穏無事ということを思うとき、言い換えれば、昨年のように、入院、手術もなかったし、子もなく、むろん
孫もない身としては、喜びも、悲しいことも少ないわけで、だから、幸せ、と言い切れるわけでもない。

例年、京都の妹宅で新年を迎えるのだけれど、今年は西の方角がよくないと易の先生に言われたので、無理に逆らう理由もないので、一人さびしく大晦日と新年を迎えることになった。

今年は、試しに、三段重ねのお重を予約したので、黒豆、ごまめ、きんとんだけを作り、ご近所のお友達三人に配った。 やっぱり、私は作ることが好きらしい。 

年越しそばも早めにいただき、あとは・・・? 今年は本門寺の除夜の鐘をきき、遠くから聞こえてくる?船の越年の汽笛?を聞きながら淋しく新年を迎えることになる。

2011年12月27日火曜日

おせち料理

お正月は、過去何年か京都の妹宅で過ごしているので、おせち料理も、あまり気にしないでいた。
今年は、易の先生に「西の方角へ行かない方がいい」と言われたので、自分の年の事も考えて、東京で新年を迎えることにした。

一応、おせち料理のお重を予約しているものの、何となく、何も作らないのも気になるし・・・下の妹の二男の嫁が「大伯母さまに、おせちを習いたい」などど、嬉しいことを言われて一泊どまりで、妹が迎えに来てくれた車に乗って一昨日から妹宅へ行った。  妹宅では毎年二日に家族が集まることになっているので、おせちの量もかなり必要になる。  

時間も限られていたので、伝統の? 黒豆煮、ごまめ、栗きんとん金柑の甘煮などを一緒に作り、妹の孫姉妹と楽しく過ごして、家まで二男の嫁が車で送ってくれて、お役目を果たした。  

翌日、私宅のおせちの用意をしなければならないけれど、ごまめの顔を見るのも少し飽きたので、一拍置くことにした。 時間もまだまだあるし・・・。  今日は薬を頂きに近所の医院に行ったり、友人を訪ねたり、
年が明けるということはいろいろ事多きこと。

2011年12月4日日曜日

地域のお祭り ”クラブ祭り”

今年で何回目になるかしら?    私が久が原南自治会の副会長をしていたころ、この辺りはあまりご近所付き合いがないので、自治会主催でふれあう機会を作ろうという趣旨と、私どもの自治会には幸せなことに
自治会が”みなし法人化”が認められたこともあり、また隣に南台地公園が隣接してあるので、この公園と自治会館を使って地域のお祭りをしようという話がまとまった。

バザーをしたり、お餅つきをしたり、役員、理事さん達はかなり忙しい思いをしながら、もう何十年もこの
’クラブ祭り‘は続けられている。  

毎年、時間がある限り私は様子を見に行っている。 今日も午前九時半から・・・と言うので10時ごろ出かけてみた。  驚いたことに、公園はいろいろな出店、お餅つきも臼が二個所、屈強な男性が二人、勢いよく杵の音高く・・と大変な賑わい。 お花を売る店、野菜、果物などなど。  おもちつき、には大勢の列が連なっていた。  

売り子さんたちは皆、私の知っている方々なので(私が電話して無理やり民生委員を引き受けてくださった方のお顔もあった) 顔見知りの方々にご挨拶とお礼をしながら、お天気にも恵まれたとはいえ、大勢のかたがたをかき分けながら、小さなポインセチアの植木鉢を求めてそそくさと家に戻ったけれど、若い方々も増えて我が?南自治会も発展するように・・・・!

2011年11月22日火曜日

下田で・・・過ごした二日間

女学校時代の友人が、突然、「下田へ行かない?」と誘ってくれた。 彼女は或る会の会員で、年に何回か下田の会員制のホテルに泊まりに行くと言って、上げ膳据え膳、もいいものよ・・・と誘ってくれた。

実はあまり期待をしてはいなかった。  友人は東京駅から、私は品川駅から伊豆急に乗ることになり、彼女は指定席の券を郵送してくれた。   久しぶりに伊豆急に乗るということと、昼食の弁当を買うこと、品川からの乗車券を求めることが可なり気になって一時間の余裕をもって家を出た。  年を重ねている?ということ、他人様に迷惑をかけたくないために、自分がある程度の努力・・・時間の余裕をもっということが助けになると私は思った。 

行きは、伊豆急の”踊り子”号は空いていて快適だった。  以前下田方面に行くためには、途中乗り換えた記憶があるが、進行方向の左側に美しい海を眺めながらの車中はトテモ気分の良いものだった。

下田駅には、いろいろなホテルからの迎えのバスが何台も止まって、お客を待っていた。  五分ほどで、目的のホテルに着いた。  ホテルに入ってみて、そのホテルの大きさに少し驚いた。 私たちの部屋は七階の部屋で、彼女はスィートをとっていてくださったので、八畳の和室、とツイン・ベッドがあり、予想していたより立派な部屋で、部屋のカーテンを開けてみて三浦岬を一望出来る美しい景色に感激! まるで、自然をうまく使ってつくつた箱庭のような眺めだった。

お待ちかねの夕食も、一日目は和食で、二日目はフランス料理と決めていたが、和食の献立はアワビや旬の魚の刺身を芸術的に盛り合わせた懐石料理で、蒸し物などの組み合わせもよく、失礼ながら会員制のホテルの懐石料理としては、かなりのものだと覆った。  ただ、終わりごろ出された味噌汁は少し失望した。

食後、しばらくして利用した温泉風呂も三段階に温,熱、を分けていて周りも広く,脱衣場もかなり広く満足いけるものだった。

2011年11月6日日曜日

昔話

先日京都に住む姪の長男、おなじみの諒太君とママが東京に出てきていて、妹達の渋谷の家に二泊することになった。  夏以来のことで、覚えているかしら?と思っていたら、ニコニコと私を迎え入れ、私の左手小指と薬指をつかんで、おもちゃの傍に引っ張って行かれた。

いろいろ遊んであげている中で、試しに昔話を話して聞かせてみた。  一つは’浦島太郎’もう一つは”桃太郎。 ”むろん、すぐ飽きてしまうかと思いきや、二つの物語を最後までじっと聞いていてくれた。  まだ二歳と四か月の子に、はたして理解してもらえたものかどうか、身じろぎもせずじっと、聞き入ってくれてトテモうれしかった。

そこで、次は、甥の長女で、ママが第二子出産で入院中の萌彩ちゃんが妹宅にパパと泊まりに来たので、寝物語?にお布団のそばで、同じお話をして聞かせていたら、目がだんだん見開いてきて、眠るどころではなくなってきた。  少し困ってきたところに、甥が入ってきて「ママが、大ばばにお話をしていただいていたら、萌彩は、寝ないと思うので、代わった方がいいって言ってきたから・・・」と言いながら部屋に入ってきた。
御明察!ということで、代わったら、間もなく萌彩ちゃんは眠った。

私は果たして、お話上手?なのか、どちらなのか?

2011年11月4日金曜日

英彦山

今日、ジムでサイクリング・マシンに乗りながら、テレビを見ていたら、北九州添田の英彦山で小学生が何人か、蜂に襲われて病院に行った・・・というニュースが報じられていた。

実は私の「英子」というのは、母方の父がこの字「英」を取ってつけたと聞いた。  当時、私の父は北九州の日本製鉄所に勤めていて、母の父もその前身の官営日本製鉄所に勤めていた。 父は英彦山の麓の庄屋に養子になって、当時の高等学校から、北九州の当時の帝国大学まで、学費をその養父に出していただいていた。

母の父親が私の父を見込んで、両親は結婚した。  私の祖父は当時の官営製鉄所で経理部長だったそうだが、文学的才能があって、私が長じて東京に来てその祖父の家を訪ねると、書斎の本の山にうっとりとして、書斎に入るのが好きで、祖父から「ふさ子は本が好きか?」と嬉しそうに目を細めていた。 

 英子と書いて、ふさ子と読ませるように凝ってつけてくれたことを、女学生だったころまでは、トテモ疎ましく思って育った。  小学校の頃も、女学校の頃も英子をふさ子と呼んでくださる方はなく、どちらかというと、引っ込み思案だった私は、先生が「えい子」「ひでこ」と読まれて、私が「ふさこです」というと「へえ?」と言われ、少し気の利いた先生は「そうか、はなぶさ、とよむからな~」と・・・そんな時、たぶん顔を赤らめて、立ちすくんでいた、と思う。

今日、テレビの画面に英彦山の姿を見て、何とも懐かしく、また心中誇らしく思った。  だた、今の今まで、英彦山を、英 英彦山 だと思っていた。