選挙報道の合間に、台風が関東地区を襲う恐れがあると報じられていたので、朝九時半に家を出て、池上の銀行に行く。 さすがに空いていて、洗面台の取り換えのための初回金を振り込む。
夕方、冷蔵庫の支払いもあるので、気になったけれど、資金ぐりも我ながら運よくできた。 そこまでは・・・・。
夕方、電気店から電話で30分後にお伺いします・・・と連絡があり、冷蔵庫の中身を出し始めて、ビックリ! 野菜入れを整理し、冷凍庫の始末にずいぶん時間がかかり、そこらじゅう食べ物の山。 三分の一は廃棄。 あ~あ、疲れた!
新しい冷蔵庫は、以前より少し大型なので、都合良く収めるのに又30分くらい時間がかかった。 そういえば昨年暮れには冷蔵庫の整理をしなかったかも? 知らず知らずのうちに不用なものがたまって恐ろしいことになっていた。
この夏も、家にいる事が少なく、カーテンなどの洗濯も出来てない。 考えていても仕方のないこと、
天気が良くなったら,順次こなすしかない。 先ずは洗面所の整理から・・・・。
2009年8月31日月曜日
2009年8月30日日曜日
選挙
東京は朝から台風の影響で時々雨。 早めに投票に行った方がよさそうだと思って、10時ごろ家を出た。 ご夫妻で投票に行く方が何組か見られた。
投票所に決められている久が原小学校に着いて、驚いた。 門を入るのにも、競争。 投票所の入口まで、長い列で、これは時間がかかりそうだと思っていたら、私の家の区域の方々が少なかったので、直ぐ投票することが出来た。 こんなに多くの方々が投票に来たのを見たのは30年来なかったこと。 これでは、多分民主党が大勝だろうな~と皆思った事だろう。 選挙戦でも今までわめきつずけていらっしたMさんがトテモ落ち着いた感じで、自民党のIさんは可也切羽つまって、当初から優劣は決まっていた。
選挙速報で各地からの当選者のインタビューがなされている。 世の中政権が変わったからと言ったって、そう変わるとは思えない。
投票所に決められている久が原小学校に着いて、驚いた。 門を入るのにも、競争。 投票所の入口まで、長い列で、これは時間がかかりそうだと思っていたら、私の家の区域の方々が少なかったので、直ぐ投票することが出来た。 こんなに多くの方々が投票に来たのを見たのは30年来なかったこと。 これでは、多分民主党が大勝だろうな~と皆思った事だろう。 選挙戦でも今までわめきつずけていらっしたMさんがトテモ落ち着いた感じで、自民党のIさんは可也切羽つまって、当初から優劣は決まっていた。
選挙速報で各地からの当選者のインタビューがなされている。 世の中政権が変わったからと言ったって、そう変わるとは思えない。
2009年8月29日土曜日
大丈夫?
年をとると疲れの出るのが、遅くなる。 子供のころは遠足とか運動会の翌日に疲れた~!という感じでも、直ぐに回復するのに・・・・。
昨日の朝は何とも脱力感に襲われ、熱を計ったら微熱があったので、ジムに行くのをやめた。 午後Uさんが来て下さり、洗面所の修理の契約をして、いろいろ楽しい話をしているうちに、すっかり気分もよくなり、買い物に行く気もしてきた。
今日もジムのお友達とお茶をいただきながら、世間話をして、すっかり、元気を回復した。 ところが、夕方何時もの電気やさんに冷蔵庫の修理をお願いしたところ、買い替えを勧められて、また少し落ち込む羽目になった。 それでも、私は意外についていて、その上、あきらめ?が早いので、例の「後十年生きるとして・・・・」というセリフを思い出して、買い替えることにした。もう少しもたせたかったし、今年は色々出費も嵩んだけれど・・・。 まあ、どうにかなるさ、というのと「風と共に去りぬ」のスカーレットではないけれど「又明日、考えよう」というわけ。 神様が時々助けt下さることがあるのですよ!
昨日の朝は何とも脱力感に襲われ、熱を計ったら微熱があったので、ジムに行くのをやめた。 午後Uさんが来て下さり、洗面所の修理の契約をして、いろいろ楽しい話をしているうちに、すっかり気分もよくなり、買い物に行く気もしてきた。
今日もジムのお友達とお茶をいただきながら、世間話をして、すっかり、元気を回復した。 ところが、夕方何時もの電気やさんに冷蔵庫の修理をお願いしたところ、買い替えを勧められて、また少し落ち込む羽目になった。 それでも、私は意外についていて、その上、あきらめ?が早いので、例の「後十年生きるとして・・・・」というセリフを思い出して、買い替えることにした。もう少しもたせたかったし、今年は色々出費も嵩んだけれど・・・。 まあ、どうにかなるさ、というのと「風と共に去りぬ」のスカーレットではないけれど「又明日、考えよう」というわけ。 神様が時々助けt下さることがあるのですよ!
2009年8月26日水曜日
虫の合唱
京都に居た時は感じなかったけれど、東京の私の家の狭い庭では秋の虫の大合唱。 私が移って来た頃はクツワムシの声なども混ざっていて、眠れないほどだったけれど、今鳴いているのは、主に、こうろぎの合唱のようだ。 先日、ミサワのUさんが夏休みに白馬に行って夜空の星がトテモ奇麗でした・・・と言っていらっしたが、東京の夜空は星の数も少ない。
ようやく普段の生活に戻り、少し淋しいけれど、マイぺースで事が始められる。 午前中Uさんが担当の業者さんを連れて来て、ようやく洗面所の修理に取り掛かる。 明日からジムにも行くことができる。B医院に行って大腸の検査の準備もしなければならない。 秋の訪れが早いと、気が焦ってしまう。
2009年8月25日火曜日
夏の終わりは諒ちゃんとお別れ
二十一日に妹と姪と諒ちゃん達を京都へ送って行って、今夕帰京した。 新幹線の中では諒ちゃんはトテモ静かに眠っていて、グリーン車の中のどなたもが赤ちゃんがいる事さえ気ずかなかったと思う。
じーじとお手伝いさんがにこにこと出迎えてくれたが、前もって用意していたベットには寝つけないようだった。 環境の変化に以外に敏感なのか、それとも成長してきたのか? ともかく大モテ!
二人のお手伝いさん達はお孫さんもいて、赤ちゃんのあっかいには慣れていて、私たちは安心して少しの間、出かけることもできた。 着いた日にはゴルフ帰りのパパも駆けつけて賑やかな夜になった。
ただ、パパがばばの、妹に対しては丁寧すぎる?お世話になりました・・・という言葉があったのに、大伯母のわもたしには、何の言葉もなかったので、私は少し不快だった。 五月の自治会の総会の後から(5月17日)から妹が仕事で京都に帰った日は私だけ泊まったり、途中何度かは家に戻って泊まったものの、料理教室もドタキャンしたり、ジムにも通えなかったり・・・・少し体調も悪かったり・・・・。 それでも、諒ちゃんを抱っこ出来たのはトテモ嬉しいことで、特に笑顔を見せてくれたり、姪の三人で大徳寺辺りを散策したり、姪のベッドで「お雛まき」された諒ちゃんを真夜中まで面倒をみたこと、それだけの体力を私に与えてくださった神様に感謝!
帰京して、すっかり夏が終わってしまったのを感じて、諒ちゃんともしばらくは会えないな~と、淋しく、何十年か前、諒ちゃんのママがば~ばと京都へ戻る時のことなども思い出した。
じーじとお手伝いさんがにこにこと出迎えてくれたが、前もって用意していたベットには寝つけないようだった。 環境の変化に以外に敏感なのか、それとも成長してきたのか? ともかく大モテ!
二人のお手伝いさん達はお孫さんもいて、赤ちゃんのあっかいには慣れていて、私たちは安心して少しの間、出かけることもできた。 着いた日にはゴルフ帰りのパパも駆けつけて賑やかな夜になった。
ただ、パパがばばの、妹に対しては丁寧すぎる?お世話になりました・・・という言葉があったのに、大伯母のわもたしには、何の言葉もなかったので、私は少し不快だった。 五月の自治会の総会の後から(5月17日)から妹が仕事で京都に帰った日は私だけ泊まったり、途中何度かは家に戻って泊まったものの、料理教室もドタキャンしたり、ジムにも通えなかったり・・・・少し体調も悪かったり・・・・。 それでも、諒ちゃんを抱っこ出来たのはトテモ嬉しいことで、特に笑顔を見せてくれたり、姪の三人で大徳寺辺りを散策したり、姪のベッドで「お雛まき」された諒ちゃんを真夜中まで面倒をみたこと、それだけの体力を私に与えてくださった神様に感謝!
帰京して、すっかり夏が終わってしまったのを感じて、諒ちゃんともしばらくは会えないな~と、淋しく、何十年か前、諒ちゃんのママがば~ばと京都へ戻る時のことなども思い出した。
2009年8月17日月曜日
八月十五日
毎年八月十五日、大田区では終戦記念と平和を祈念して、区民の有志の寄付により、多摩川で花火大会を催している。
私の家の前の道路からそれらの花火を見る事が出来る。 ところが、昨年は妹宅の箱根の別荘に行っていて叶わず、今年は姪の出産後の諒ちゃんの世話をするため、富ヶ谷の妹宅へ泊っていて、花火を見る事が出来なかった。
私の様に戦争を知っている者にとって、花火のド~ン、という音は、戦後こんなに年月が経っているにも関わらず、時にはB29に向けて発砲している大砲の音を思い出したりする。 そのほとんどが、機体に届くことなく、空しく音だけが耳に残った。 お腹に響く音だった。
戦争中久が原に住んでいた方々から時々、大砲の基地があって、そのためこのあたりに焼夷弾が落とされたり、高射砲に撃ち落とされたB29の機体が落ちたところには大きな穴が開いていた・・・という話を聞いたことがある。 大きな穴が出来たという、そのあたりには今は二・三軒家が建っている。 こんなに静かなこの街並みにそんなことがあったということを話して下さる方々も年をとられた。
私の家の前の道路からそれらの花火を見る事が出来る。 ところが、昨年は妹宅の箱根の別荘に行っていて叶わず、今年は姪の出産後の諒ちゃんの世話をするため、富ヶ谷の妹宅へ泊っていて、花火を見る事が出来なかった。
私の様に戦争を知っている者にとって、花火のド~ン、という音は、戦後こんなに年月が経っているにも関わらず、時にはB29に向けて発砲している大砲の音を思い出したりする。 そのほとんどが、機体に届くことなく、空しく音だけが耳に残った。 お腹に響く音だった。
戦争中久が原に住んでいた方々から時々、大砲の基地があって、そのためこのあたりに焼夷弾が落とされたり、高射砲に撃ち落とされたB29の機体が落ちたところには大きな穴が開いていた・・・という話を聞いたことがある。 大きな穴が出来たという、そのあたりには今は二・三軒家が建っている。 こんなに静かなこの街並みにそんなことがあったということを話して下さる方々も年をとられた。
2009年8月11日火曜日
来た!
今朝五時八分に又揺れた。 何となく目が覚めて、いらついていたら、突然、ゆら~っと揺れた。 地震! 今度は本物かも? ほかの人達は信じないだろうけれど、私の寝室では、南から北へと揺れる。 いよいよ、東京に大きな地震が・・・・? 二日前にあったばかりなのに・・・。 ガタン、ゆらゆら・・・と揺れて終わった。 急いでテレビをつけてみた。 やっぱり 、NHKでしょう?
震源地は静岡、と出た。 震源地は海沿いで津波に注意、と報じていた。 下の妹が一人で犬のベルと一緒に静岡県の十里木の別荘にいる。 夫は東京へ戻っている。 報道では妹の別荘あたりは大丈夫そうだったが、一旦下に降りて電話番号を確かめたが、もう少し経ってから・・・と思いなおして、起きてから電話した 震度六とかで目立った被害はなかったけれど、、可也怖かった由だった。
その後、妹から電話があって、次男からは午前五時代に様子を聞く電話があり、その後長男からも電話で様子を尋ねて来たけれど、夫からは何の問い合わせもないので反対にこちらから電話をした・・・とやや、憤慨した電話があった。
震源地は静岡、と出た。 震源地は海沿いで津波に注意、と報じていた。 下の妹が一人で犬のベルと一緒に静岡県の十里木の別荘にいる。 夫は東京へ戻っている。 報道では妹の別荘あたりは大丈夫そうだったが、一旦下に降りて電話番号を確かめたが、もう少し経ってから・・・と思いなおして、起きてから電話した 震度六とかで目立った被害はなかったけれど、、可也怖かった由だった。
その後、妹から電話があって、次男からは午前五時代に様子を聞く電話があり、その後長男からも電話で様子を尋ねて来たけれど、夫からは何の問い合わせもないので反対にこちらから電話をした・・・とやや、憤慨した電話があった。
2009年8月9日日曜日
あれから、もう六十四年?
先ほど驚くほど大きな地震があった。 一人でいる私はそんな時どうしたらいいか分からなくって、とりあえずテーブルの下にもぐった。 皆さまは普通どうなさいます? 一瞬の出来事にあわててする行動が時に命を奪われたり大変な目に逢うことになる。
先の戦争でもそんなことがアチコチで起きた。 単に運が良かったから・・・とだけは言い得ない事が六十四年前の長崎でも起きた。 この季節になると、私は私の記憶の中に残っている私の経験を思い出しながら文字にしておこうと思う。 時にはダブって書くこともあるかもしれないし、未だ十五歳だった私には理解できないことが沢山あった。
ところで、この日長崎に落とされた原爆については、新聞には余り詳しくは報じられなかったように思う。 広島に落とされた原爆についても、朝刊(その頃は夕刊は紙不足で発刊されなかった、と記憶する) に写真もなく、新型爆弾か?との見出しで記事も少なかった。
親たちも事情は分lかっていなかったようだった。 何となく何かが終わりに近ずいた感じで、 よくいわれていたように、また時々実際に訓練されていたように、竹棒で敵と戦うなんてことは、先ず不可能だということだけは、口には出さなかったとしても、誰もが分かっていたにちがいなかった。 ただ、誰もが今日は生きていた! 明日の空襲では、誰がどうなるか?・・・・と思っていたに違いなかった。
敵機が撒いていった”ビラ”も読むな!と言われていても、誰もがキッと、チラッとは見ていたに違いなかった。 幼稚な日本語で印刷されていたビラはもったいぶって報じられた「大本営発表!」より信じられそうな気がしたりしたのは、私だけではなかったと思う。
先の戦争でもそんなことがアチコチで起きた。 単に運が良かったから・・・とだけは言い得ない事が六十四年前の長崎でも起きた。 この季節になると、私は私の記憶の中に残っている私の経験を思い出しながら文字にしておこうと思う。 時にはダブって書くこともあるかもしれないし、未だ十五歳だった私には理解できないことが沢山あった。
ところで、この日長崎に落とされた原爆については、新聞には余り詳しくは報じられなかったように思う。 広島に落とされた原爆についても、朝刊(その頃は夕刊は紙不足で発刊されなかった、と記憶する) に写真もなく、新型爆弾か?との見出しで記事も少なかった。
親たちも事情は分lかっていなかったようだった。 何となく何かが終わりに近ずいた感じで、 よくいわれていたように、また時々実際に訓練されていたように、竹棒で敵と戦うなんてことは、先ず不可能だということだけは、口には出さなかったとしても、誰もが分かっていたにちがいなかった。 ただ、誰もが今日は生きていた! 明日の空襲では、誰がどうなるか?・・・・と思っていたに違いなかった。
敵機が撒いていった”ビラ”も読むな!と言われていても、誰もがキッと、チラッとは見ていたに違いなかった。 幼稚な日本語で印刷されていたビラはもったいぶって報じられた「大本営発表!」より信じられそうな気がしたりしたのは、私だけではなかったと思う。
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