2009年6月22日月曜日

思い出話

私の実の弟よりず~っと弟らしい従弟が下の妹と私をランチに誘ってくれた。
赤坂辺りは待ち合わせるのが大変なので、五反田駅で会い、JRと地下鉄を乗りついで、赤坂の、いとこの行きつけの店に行く。 新しくて清潔な店だった。 そのあと話が尽きず、近くのTBSビルでお茶しながら遠慮のない話が尽きない。
  
私たちの母方は兄弟も多く、したがって従弟たちの数も可也のもので、’杏の会”と名ずけた従弟会を結成しているが、従弟たちも年をとったり、亡くなったりで、中々集まるのも厳しくなってきた。

この従弟は父親が戦争中ニューギニアで戦病死して、戦後の食糧難の時期、私たち家族が埼玉県の戸田橋近くに住んでいたころ、その母親と彼を預かっていた経緯がある。 食料のない時期だったので、私たちの父母は隣接の土地に色々な野菜などを作って子供達の食料生産をしていた。 

父もその当時は戦争中の所謂レッド・パージをまぬかれて製鉄会社の役員に返り咲いていた。  とは言え、二人口増えるのは可也大変なことだった。  その従弟の感じていたことは、彼の母親は彼の母親の実家がある宮崎県で過ごすべきだった・・・と言っていて、その美談はかき崩れた。  それもそうだ・・・と今だから言えることだ。    
今時の、何不自由ない生活をしていける若い方たちには到底理解できることではないことは確かだ。

0 コメント: