2012年3月5日月曜日

震災と釜石と亡き父と・・・

今年になって何回もブログを更新しながら、途中で止めてしまっていた。  見てくれている方がないのではないか?とか、私自身も飽きたというか・・・。

今日の朝日新聞の朝刊の社会面に ’旅立つか残るか18の春’という紙面半分をさいての記事を見て、「ああ、あの釜石が・・・”と亡き父のことを思って・・・・

父が戦後何年か経って、当時の富士製鉄所(後の新日本製鉄所)釜石製鉄所の所長として(当時は四人の子供たちの学校の事もあって)、単身赴任していた。 戦後の鉄は宝の時代の事。 華やかで、父はその頃、産業の少なかった東北地方で、「多額納税者として、新聞に名前が載った・・と少し照れながら言っていた。

東京がら釜石までは、途中乗り換えなどもあって、可なり時間がかかった。  花巻で一泊して、釜石まで単線の石炭列車でトンネルを過ぎると急に美しい海が見えた記憶がある。 その海が・・・? (戦時中、その海岸に米国の軍艦が来て、艦砲射撃を受けてとかいうことは、当時の私たちは知らなかったこと(戦後、大分経ってから、家に来ていたお手伝いさんから聞いて驚いたことがあった)

新聞の記事に戻るが、多くの方々が津波で家族を失われた。 その中で、祖母を亡くされたSさんは釜石を離れる方々が多い中で、お父さんと同じ新日鉄釜石製鉄所で働くという。 「友達が出ていくのは寂しいけど、俺がこつちを守っとくから、いつでも帰ってこいってかんじ」親子2代の新日鉄マン。その父は言う「体はゆるくねぇけど、町で一番伝統のある会社。 息子が入るのはうれしいね」  町にはもはや、「鉄と魚の釜石」として栄えた面影はない。  更に、避難所で多くのボランティアと接した経験からKさんは社会福祉を学ぶため関東の大学へ進むという。 「震災で知った友情や思い出の大切さ。 形のないものは,流されなかった。 だから、どこさ行っても気持ちは釜石にあるって、自信があんだ」

二人の女性記者さんの書いた記事。  私は一度しか釜石を訪れたことはなかったが、文字どおり‘鉄と魚の町’。  それでも少し船で行くと’浄土ヶ浜‘という文字通り浄土を思わせる美しい島があった。 今はどうなっているのかしら?
  
一日も早く昔通り復興しますように!  それに、何人かお手伝いさんとして私達の家に来ていてくれた方たちは無事だろうか?

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