女学校時代の友人が、突然、「下田へ行かない?」と誘ってくれた。 彼女は或る会の会員で、年に何回か下田の会員制のホテルに泊まりに行くと言って、上げ膳据え膳、もいいものよ・・・と誘ってくれた。
実はあまり期待をしてはいなかった。 友人は東京駅から、私は品川駅から伊豆急に乗ることになり、彼女は指定席の券を郵送してくれた。 久しぶりに伊豆急に乗るということと、昼食の弁当を買うこと、品川からの乗車券を求めることが可なり気になって一時間の余裕をもって家を出た。 年を重ねている?ということ、他人様に迷惑をかけたくないために、自分がある程度の努力・・・時間の余裕をもっということが助けになると私は思った。
行きは、伊豆急の”踊り子”号は空いていて快適だった。 以前下田方面に行くためには、途中乗り換えた記憶があるが、進行方向の左側に美しい海を眺めながらの車中はトテモ気分の良いものだった。
下田駅には、いろいろなホテルからの迎えのバスが何台も止まって、お客を待っていた。 五分ほどで、目的のホテルに着いた。 ホテルに入ってみて、そのホテルの大きさに少し驚いた。 私たちの部屋は七階の部屋で、彼女はスィートをとっていてくださったので、八畳の和室、とツイン・ベッドがあり、予想していたより立派な部屋で、部屋のカーテンを開けてみて三浦岬を一望出来る美しい景色に感激! まるで、自然をうまく使ってつくつた箱庭のような眺めだった。
お待ちかねの夕食も、一日目は和食で、二日目はフランス料理と決めていたが、和食の献立はアワビや旬の魚の刺身を芸術的に盛り合わせた懐石料理で、蒸し物などの組み合わせもよく、失礼ながら会員制のホテルの懐石料理としては、かなりのものだと覆った。 ただ、終わりごろ出された味噌汁は少し失望した。
食後、しばらくして利用した温泉風呂も三段階に温,熱、を分けていて周りも広く,脱衣場もかなり広く満足いけるものだった。
2011年11月22日火曜日
2011年11月6日日曜日
昔話
先日京都に住む姪の長男、おなじみの諒太君とママが東京に出てきていて、妹達の渋谷の家に二泊することになった。 夏以来のことで、覚えているかしら?と思っていたら、ニコニコと私を迎え入れ、私の左手小指と薬指をつかんで、おもちゃの傍に引っ張って行かれた。
いろいろ遊んであげている中で、試しに昔話を話して聞かせてみた。 一つは’浦島太郎’もう一つは”桃太郎。 ”むろん、すぐ飽きてしまうかと思いきや、二つの物語を最後までじっと聞いていてくれた。 まだ二歳と四か月の子に、はたして理解してもらえたものかどうか、身じろぎもせずじっと、聞き入ってくれてトテモうれしかった。
そこで、次は、甥の長女で、ママが第二子出産で入院中の萌彩ちゃんが妹宅にパパと泊まりに来たので、寝物語?にお布団のそばで、同じお話をして聞かせていたら、目がだんだん見開いてきて、眠るどころではなくなってきた。 少し困ってきたところに、甥が入ってきて「ママが、大ばばにお話をしていただいていたら、萌彩は、寝ないと思うので、代わった方がいいって言ってきたから・・・」と言いながら部屋に入ってきた。
御明察!ということで、代わったら、間もなく萌彩ちゃんは眠った。
私は果たして、お話上手?なのか、どちらなのか?
いろいろ遊んであげている中で、試しに昔話を話して聞かせてみた。 一つは’浦島太郎’もう一つは”桃太郎。 ”むろん、すぐ飽きてしまうかと思いきや、二つの物語を最後までじっと聞いていてくれた。 まだ二歳と四か月の子に、はたして理解してもらえたものかどうか、身じろぎもせずじっと、聞き入ってくれてトテモうれしかった。
そこで、次は、甥の長女で、ママが第二子出産で入院中の萌彩ちゃんが妹宅にパパと泊まりに来たので、寝物語?にお布団のそばで、同じお話をして聞かせていたら、目がだんだん見開いてきて、眠るどころではなくなってきた。 少し困ってきたところに、甥が入ってきて「ママが、大ばばにお話をしていただいていたら、萌彩は、寝ないと思うので、代わった方がいいって言ってきたから・・・」と言いながら部屋に入ってきた。
御明察!ということで、代わったら、間もなく萌彩ちゃんは眠った。
私は果たして、お話上手?なのか、どちらなのか?
2011年11月4日金曜日
英彦山
今日、ジムでサイクリング・マシンに乗りながら、テレビを見ていたら、北九州添田の英彦山で小学生が何人か、蜂に襲われて病院に行った・・・というニュースが報じられていた。
実は私の「英子」というのは、母方の父がこの字「英」を取ってつけたと聞いた。 当時、私の父は北九州の日本製鉄所に勤めていて、母の父もその前身の官営日本製鉄所に勤めていた。 父は英彦山の麓の庄屋に養子になって、当時の高等学校から、北九州の当時の帝国大学まで、学費をその養父に出していただいていた。
母の父親が私の父を見込んで、両親は結婚した。 私の祖父は当時の官営製鉄所で経理部長だったそうだが、文学的才能があって、私が長じて東京に来てその祖父の家を訪ねると、書斎の本の山にうっとりとして、書斎に入るのが好きで、祖父から「ふさ子は本が好きか?」と嬉しそうに目を細めていた。
英子と書いて、ふさ子と読ませるように凝ってつけてくれたことを、女学生だったころまでは、トテモ疎ましく思って育った。 小学校の頃も、女学校の頃も英子をふさ子と呼んでくださる方はなく、どちらかというと、引っ込み思案だった私は、先生が「えい子」「ひでこ」と読まれて、私が「ふさこです」というと「へえ?」と言われ、少し気の利いた先生は「そうか、はなぶさ、とよむからな~」と・・・そんな時、たぶん顔を赤らめて、立ちすくんでいた、と思う。
今日、テレビの画面に英彦山の姿を見て、何とも懐かしく、また心中誇らしく思った。 だた、今の今まで、英彦山を、英 英彦山 だと思っていた。
実は私の「英子」というのは、母方の父がこの字「英」を取ってつけたと聞いた。 当時、私の父は北九州の日本製鉄所に勤めていて、母の父もその前身の官営日本製鉄所に勤めていた。 父は英彦山の麓の庄屋に養子になって、当時の高等学校から、北九州の当時の帝国大学まで、学費をその養父に出していただいていた。
母の父親が私の父を見込んで、両親は結婚した。 私の祖父は当時の官営製鉄所で経理部長だったそうだが、文学的才能があって、私が長じて東京に来てその祖父の家を訪ねると、書斎の本の山にうっとりとして、書斎に入るのが好きで、祖父から「ふさ子は本が好きか?」と嬉しそうに目を細めていた。
英子と書いて、ふさ子と読ませるように凝ってつけてくれたことを、女学生だったころまでは、トテモ疎ましく思って育った。 小学校の頃も、女学校の頃も英子をふさ子と呼んでくださる方はなく、どちらかというと、引っ込み思案だった私は、先生が「えい子」「ひでこ」と読まれて、私が「ふさこです」というと「へえ?」と言われ、少し気の利いた先生は「そうか、はなぶさ、とよむからな~」と・・・そんな時、たぶん顔を赤らめて、立ちすくんでいた、と思う。
今日、テレビの画面に英彦山の姿を見て、何とも懐かしく、また心中誇らしく思った。 だた、今の今まで、英彦山を、英 英彦山 だと思っていた。
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