久しぶりで一人で自宅で過ごす大晦日。 2000年のミレニアム、例の世田谷の一家皆殺しのあった年ら、数えて九年間、京都の妹宅で暮れから、新年を京都で迎えていたことになる。
10年ひと昔と言う。 そんなに経ったかしら?と思い返してみる。 このあたりの大晦日は何と静かなことか! 午前中、家の前の道を通る人を見たのは、何人か? 車の数も少ない。 前の家、お隣、裏の家もまるで静か。 御旅行かな? 朝早めに駐車場と玄関を掃除したが、忽ち風で’元の黙阿弥”。
クリスマスが 終わった26日から二泊三日の予定で下の妹宅へ正月料理を作る手伝いに行った。 下の妹は可也完璧主義なので、いい加減な私は押されっぱなし。 私は結婚以来50年!もおせち料理はつくって来ているのでほとんど手順も、調味料の加減も自動的に決めるが、妹は丁寧にノートを見ながらチェックを入る。 宝袋、柿なますは妹と次男のお嫁さんに任せて、その後は、妹の孫達と遊んで楽しんだ。これもお手伝い。
今宵は満月、美しい月が東の空に照り輝いている。 大晦日を一人で過ごすのは久しぶり、元旦のお雑煮を作るのも・・・。自分の好みのお雑煮を作ろうと思ったものの、大晦日におそば、元旦にお雑煮の他に何を頂いていたか? 京都の妹宅では大晦日は蟹とか、到来物も多いので、品々並んでいたし、元旦は立派なお重を頂いていた。 夫がいたころはポテトサラダとハム、天ぶらなど、元旦はおせちをいただいた。
今回はおせちはなかったので、帰宅後黒豆を煮て、栗を求め栗きんとんは作ったけれど、何か淋しい。 初めて昆布巻きとごまめをほんの少し求めてみた。 これに紅白のかまぼこがあれば何とか明日の元旦は形がつくだろう。 一人で祝う新年も案外いいものかも?
2009年12月31日木曜日
2009年12月25日金曜日
クリスマス会とお世話になったお礼
入院中退院後もいろいろお世話になったお友だちにお礼のクリスマス会をようやく今日果たすことができた。
一昨日近所のとり専門店でひな鳥を求めて昨日から下準備をして、今日は朝から鳥にスタッフィングを詰めてオーブンで40分掛けて焼く。 毎年のように今年もクラムチャウダーを作り、クリスマス色のサラダとあり合わせの前菜を添えた。
驚いたことに、昨日パンを買ってきていただくようにお願いしたお友だちが、パケットは並んで買っていて既に売り切れ、今朝改めて予約して再び買いに行って下さった。 もう一人ケーキを買ってきて下さると仰っしゃつたお友だちも「ケーキが売り切れなので、どうしましょう? もう一軒行ってみます」と電話があった。
今年はなんか違う! 不景気なので、家庭でクリスマスを迎える方が多く、近所でも美味しいと言われているパン屋さんや、け―キやさんに人が集まるらしい。 鳥丸も早めに求めておいてよかったのかもしれない。
そう言えば、私が鳥丸を求めた時も、何時もとは違ってひな鳥がテーブルの上に何羽も並べて置いてあった。
私としては手術の後遺症が未だ少し残っていて、缶が開けにくかったり、料理のリズムが戻らなかったりしたけれど、皆さまが楽しんで美味しかったと仰ってくださって、ようやく次の正月料理の準備にも取り掛かれる。
一昨日近所のとり専門店でひな鳥を求めて昨日から下準備をして、今日は朝から鳥にスタッフィングを詰めてオーブンで40分掛けて焼く。 毎年のように今年もクラムチャウダーを作り、クリスマス色のサラダとあり合わせの前菜を添えた。
驚いたことに、昨日パンを買ってきていただくようにお願いしたお友だちが、パケットは並んで買っていて既に売り切れ、今朝改めて予約して再び買いに行って下さった。 もう一人ケーキを買ってきて下さると仰っしゃつたお友だちも「ケーキが売り切れなので、どうしましょう? もう一軒行ってみます」と電話があった。
今年はなんか違う! 不景気なので、家庭でクリスマスを迎える方が多く、近所でも美味しいと言われているパン屋さんや、け―キやさんに人が集まるらしい。 鳥丸も早めに求めておいてよかったのかもしれない。
そう言えば、私が鳥丸を求めた時も、何時もとは違ってひな鳥がテーブルの上に何羽も並べて置いてあった。
私としては手術の後遺症が未だ少し残っていて、缶が開けにくかったり、料理のリズムが戻らなかったりしたけれど、皆さまが楽しんで美味しかったと仰ってくださって、ようやく次の正月料理の準備にも取り掛かれる。
2009年12月24日木曜日
くちなしの実
毎年、お正月料理を作る用意をする頃になり、材料を買いそろえる時、気になるのはキントンの色をよくするためのくちなしの実を見つけることだ。
昨年はサフランのめしべがあったので高価ながらそれを当てた。
その頃になるとアチコチのお家のお庭をきょろきょろ見て、二つ三つ頂戴することにしている。 どうせ鳥がついばんでしまうことだし、わざわざお家の方を呼び出して「くちなしの実をください」と言うのもお互い面倒だと思うからだ。 例年無断頂戴しているお宅のくちなしの実が今年は余り色どりがよくない。 先日久が原方面に行く途中小さいながら色のよい実が沢山ついてるのを見つけたが、どこだったか思い出せない。
以前両親が住んでいた隣の今は貸家にしている南側の垣根の側にも確か一重のくちなしがあったはずだと思って見に行ったが、”実の一つだになし”だった。
昨年はサフランのめしべがあったので高価ながらそれを当てた。
その頃になるとアチコチのお家のお庭をきょろきょろ見て、二つ三つ頂戴することにしている。 どうせ鳥がついばんでしまうことだし、わざわざお家の方を呼び出して「くちなしの実をください」と言うのもお互い面倒だと思うからだ。 例年無断頂戴しているお宅のくちなしの実が今年は余り色どりがよくない。 先日久が原方面に行く途中小さいながら色のよい実が沢山ついてるのを見つけたが、どこだったか思い出せない。
以前両親が住んでいた隣の今は貸家にしている南側の垣根の側にも確か一重のくちなしがあったはずだと思って見に行ったが、”実の一つだになし”だった。
2009年12月21日月曜日
喪中につき、その2
前につずき・・・ 「喪中につき・・・の葉書は今年も今までに三通届いた。
考えてみれば、私たちも来年には80歳になるのだから、お友だちの御身内から、喪中につき・・・という欠礼のお知らせが届くのは当然の事なのかも知れない、身内のない私の場合はそういう場合どうなるのかしら?
などと考えてみた。
ところで、Sさんの亡くなったお知らせは可也ショッキングだった。 夏過ぎに二度目のお電話をした時は電話には出られない・・・と御子息のお返事だったけれど、そんなに急にお亡くなりになるとは夢にも思えなかった。 ずっと御自宅でご療養だったのだと思う。 みじめなご療養のお姿を、お見舞いという形でお伺いするのもためらわれて、御逝去の後大分日にちも経っているので、静かに御冥福を祈らせていただくことにした。
彼女のお舅さまがお亡くなりになった時も御主人が他界された時も日吉の御自宅にお伺いして、何人かの男衆が紋いりの半被を着て、案内などをしていたのを思い出すが、彼女の場合は、キット静かに御身内で送られたのだろう。
思いだすことはよい事ばかり・・・ゴルフ練習所であちらの御夫妻と私の夫と私とでお会いしたことがあった。 どちらの夫もテレ屋で夫同士は少しも会話がなく、彼女の夫は私のここを終始、結婚前の「園田さん、園田さんと仰って、私は夫に気を使った。 日吉に住んでいらっしたので、第二京浜で車を止めて御挨拶をして下さったこともあったっけ。 み~んな亡くなってしまった。
考えてみれば、私たちも来年には80歳になるのだから、お友だちの御身内から、喪中につき・・・という欠礼のお知らせが届くのは当然の事なのかも知れない、身内のない私の場合はそういう場合どうなるのかしら?
などと考えてみた。
ところで、Sさんの亡くなったお知らせは可也ショッキングだった。 夏過ぎに二度目のお電話をした時は電話には出られない・・・と御子息のお返事だったけれど、そんなに急にお亡くなりになるとは夢にも思えなかった。 ずっと御自宅でご療養だったのだと思う。 みじめなご療養のお姿を、お見舞いという形でお伺いするのもためらわれて、御逝去の後大分日にちも経っているので、静かに御冥福を祈らせていただくことにした。
彼女のお舅さまがお亡くなりになった時も御主人が他界された時も日吉の御自宅にお伺いして、何人かの男衆が紋いりの半被を着て、案内などをしていたのを思い出すが、彼女の場合は、キット静かに御身内で送られたのだろう。
思いだすことはよい事ばかり・・・ゴルフ練習所であちらの御夫妻と私の夫と私とでお会いしたことがあった。 どちらの夫もテレ屋で夫同士は少しも会話がなく、彼女の夫は私のここを終始、結婚前の「園田さん、園田さんと仰って、私は夫に気を使った。 日吉に住んでいらっしたので、第二京浜で車を止めて御挨拶をして下さったこともあったっけ。 み~んな亡くなってしまった。
2009年12月19日土曜日
喪中につき・・・・・
例年年賀状を書くころになると必ず「喪中につき・・・・新年のご挨拶・・・」という葉書が二・三通は届く「もう宛名は書いてしまったわ」と言いながら頂いたはがきの宛名の方をとりだす作業をしていた。
今までは、父が・・・とか母が・・・とかいうお知らせが多かった。
昨年くらいから、父、母だけでなく私の友人、その方御自身の訃報の通知が見られるようになってきた。
今年は青山学院時代の方、その上驚かせられたのは、夏過ぎに電話でお話したSさんの御長男からの喪中のお知らせは、私にとって殊の外の驚きだった。
彼女とは黒田初子先生(私たちの仲人で、お料理の先生)の料理教室でお友だちになり、当時流行だった社交ダンス(戦前爵位のあった方々の)教室でも御一緒で、お互いお家にも行ったり来たりしていて、彼女の結婚式にも(当時は一般には開放していなかった)迎賓館にも出たし、その後御一緒にゴルフの練習をアチコチで先生をお呼びしてレッスンをしていただいたこともあった。
彼女は元侯爵の嵯峨家と御縁があって、御結婚後もお家にも伺ったり、むろん御主人も御一緒にダンスをしたり世間で騒がれたことの内輪話、彼女の御苦労も話して下さっていた。 何年か前、彼女とベルリンからモルダブ河、ドナウ川のクルーズ、ドレスデン、憧れのウイーン、チェコのプラハなどを御一緒に旅した。 それはトテモ楽しい旅だった。
この夏、何か気になってお電話してみたら、肺気腫という病で酸素を引っ張って歩くので中々遠くへは行けないのよと仰って「じやあ、何時ものように田園調布でお会いする?」と言ったまま、姪のお産もあって、何日か過ぎてしまっていた。 明日につずく・・・。
今までは、父が・・・とか母が・・・とかいうお知らせが多かった。
昨年くらいから、父、母だけでなく私の友人、その方御自身の訃報の通知が見られるようになってきた。
今年は青山学院時代の方、その上驚かせられたのは、夏過ぎに電話でお話したSさんの御長男からの喪中のお知らせは、私にとって殊の外の驚きだった。
彼女とは黒田初子先生(私たちの仲人で、お料理の先生)の料理教室でお友だちになり、当時流行だった社交ダンス(戦前爵位のあった方々の)教室でも御一緒で、お互いお家にも行ったり来たりしていて、彼女の結婚式にも(当時は一般には開放していなかった)迎賓館にも出たし、その後御一緒にゴルフの練習をアチコチで先生をお呼びしてレッスンをしていただいたこともあった。
彼女は元侯爵の嵯峨家と御縁があって、御結婚後もお家にも伺ったり、むろん御主人も御一緒にダンスをしたり世間で騒がれたことの内輪話、彼女の御苦労も話して下さっていた。 何年か前、彼女とベルリンからモルダブ河、ドナウ川のクルーズ、ドレスデン、憧れのウイーン、チェコのプラハなどを御一緒に旅した。 それはトテモ楽しい旅だった。
この夏、何か気になってお電話してみたら、肺気腫という病で酸素を引っ張って歩くので中々遠くへは行けないのよと仰って「じやあ、何時ものように田園調布でお会いする?」と言ったまま、姪のお産もあって、何日か過ぎてしまっていた。 明日につずく・・・。
2009年12月18日金曜日
三つの笑顔
今日下の妹の夫が、彼らの四十二回目の結婚記念日に併せて私の快気祝いをしてくれるとやさしい言葉をかけてくれて、二子玉川の高島屋の‘たん熊’に招待してくれた。 上天気で十一階からの眺めもよく、料理も器も洗練されていて楽しい時を過ごした。
その上、私は今日、三人の赤ちゃんからの笑顔をもらった。 一つは行きの池上線のの旗の台駅で降りるとき、乳母車に乗った一歳未満の女の赤ちゃんが私に微笑みかけた。 二つ目は帰り道池上線の旗の台駅のエレベータの中で、これは私があやしたら二度目ににっこり笑ってくれた。 三つ目は池上線に乗って私が降りる一つ手前の久が原駅でママに抱かれた、これもやはり一歳過ぎたブルーの洋服を着た女の子が、あちらから、にっこり私に微笑んで振り返りながら降りて行った。 いずれも、もしかして私が彼女達のおばあちゃまに似ていたのかしら?
無邪気なけがれない赤ちゃんからの笑顔は孫のない私への天使からのクリスマスプレゼントだったかも知れない。 午前10時半ごろ家を出て帰宅したのは夕方6時ごろになって少し疲れた気がしたけれど、それらの笑顔を思い出して、幸せな一日だった。
その上、私は今日、三人の赤ちゃんからの笑顔をもらった。 一つは行きの池上線のの旗の台駅で降りるとき、乳母車に乗った一歳未満の女の赤ちゃんが私に微笑みかけた。 二つ目は帰り道池上線の旗の台駅のエレベータの中で、これは私があやしたら二度目ににっこり笑ってくれた。 三つ目は池上線に乗って私が降りる一つ手前の久が原駅でママに抱かれた、これもやはり一歳過ぎたブルーの洋服を着た女の子が、あちらから、にっこり私に微笑んで振り返りながら降りて行った。 いずれも、もしかして私が彼女達のおばあちゃまに似ていたのかしら?
無邪気なけがれない赤ちゃんからの笑顔は孫のない私への天使からのクリスマスプレゼントだったかも知れない。 午前10時半ごろ家を出て帰宅したのは夕方6時ごろになって少し疲れた気がしたけれど、それらの笑顔を思い出して、幸せな一日だった。
2009年12月14日月曜日
手術後もう一カ月・・・
早いもので、先週の土曜日で手術後一か月が経った。 まだ腹腔のキズは消えないが、違和感は感じなくなった。
腹腔手術とは有り難いものだ。 体重が増えないよう気にしているつもりだけれど、何でも頂けるようになったので(自分で勝手に決めているのだけれど)朝夕体重計に乗って気をつけている。
昨日、私の入院中風邪を引いていて、来れなかった下の妹の長男一家がお見舞いに来てくれた。 何しろ、十月に一歳になったばかりの萌彩ちゃんの可愛いこと! 部屋に入って来て、私の顔をしばらくじ~っと見つめたあと、安心したように部屋中歩き回ってガス・ストーブが気に入って、ボタンを押しに来た。 この夏会った時は、まだはいはいしていて相手の言語も少ししか理解出来なかったのに、もうほとんどのことが分かって反応するので、こちらが遊んでもらっているよう。
英里ちゃん里彩ちゃん達と同じようにお隣のお庭のクリスマスのための電飾のキラキラ輝いているのが気に入っているようで、何度も玄関先を眺めていた。 妹の孫達が育っていくということは私も文字通り日に日に年をとって来ているし、日に日に衰え来世に向かっているわけで、’輪廻転生’とは・・・・?
年を得てからの入院、手術はケッコウ堪えている。
腹腔手術とは有り難いものだ。 体重が増えないよう気にしているつもりだけれど、何でも頂けるようになったので(自分で勝手に決めているのだけれど)朝夕体重計に乗って気をつけている。
昨日、私の入院中風邪を引いていて、来れなかった下の妹の長男一家がお見舞いに来てくれた。 何しろ、十月に一歳になったばかりの萌彩ちゃんの可愛いこと! 部屋に入って来て、私の顔をしばらくじ~っと見つめたあと、安心したように部屋中歩き回ってガス・ストーブが気に入って、ボタンを押しに来た。 この夏会った時は、まだはいはいしていて相手の言語も少ししか理解出来なかったのに、もうほとんどのことが分かって反応するので、こちらが遊んでもらっているよう。
英里ちゃん里彩ちゃん達と同じようにお隣のお庭のクリスマスのための電飾のキラキラ輝いているのが気に入っているようで、何度も玄関先を眺めていた。 妹の孫達が育っていくということは私も文字通り日に日に年をとって来ているし、日に日に衰え来世に向かっているわけで、’輪廻転生’とは・・・・?
年を得てからの入院、手術はケッコウ堪えている。
2009年12月12日土曜日
久しぶり…・過ぎる・・・?
先日午後4時半ごろ中年の女性から電話があった。 相手は懐かしそうに私の問いかけに応じて「やっぱり以前の通りのお声だ! 懐かしい~」と感激の様子。 最初に名乗ったのがよくわからなかったので、しばらく応対していた。 それにしてもうちの様子を余りにもよく知っていて「奥様は亡くなられたんですね~?」とか「とわ子お嬢様のお弁当を作れなくて、ご飯と余ったおかずを詰めてあげたら、それでいいわよ」と仰ってホッとしたとか、中のお嬢様は京都の御立派なお家にお嫁にいらっして、結婚のご衣裳が大変でしたよね~」とか言う。 そのうち「Hちゃんと先日会った・・・」という名前が出たので、ようやく40年くらい前私の家でお手伝いさんをしてくれていたAちゃんだと思い至った。
そして「私はとうとう子供が出来なくって・・・」と言ったら「奥様は流産なさったんですよね?」と言う。私自身でさえ自覚していなかったのに「確かに覚えています」と言い切る。 私はその時旦那様に「この薬とこの薬を買ってこい」と言われて買いに行ったのですから、よく覚えています、という。
数えてみたら40年ぶりになるかしら? 同じ頃両親の家でお手伝さんだったHちゃんは下の妹宅に手伝いに来たりして、交流があったけれどAちゃんとHちゃんはお互い時々連絡を取っていたらしかったが、聞くところによると、Aちゃんは夫も亡くなり、孫も亡くなったりで、これまであまり幸せではなかったので連絡も取りにくかったのだろう。 一時間以上も昔話で盛り上がり、近いうちに逢いましょうと電話を切った。
そして「私はとうとう子供が出来なくって・・・」と言ったら「奥様は流産なさったんですよね?」と言う。私自身でさえ自覚していなかったのに「確かに覚えています」と言い切る。 私はその時旦那様に「この薬とこの薬を買ってこい」と言われて買いに行ったのですから、よく覚えています、という。
数えてみたら40年ぶりになるかしら? 同じ頃両親の家でお手伝さんだったHちゃんは下の妹宅に手伝いに来たりして、交流があったけれどAちゃんとHちゃんはお互い時々連絡を取っていたらしかったが、聞くところによると、Aちゃんは夫も亡くなり、孫も亡くなったりで、これまであまり幸せではなかったので連絡も取りにくかったのだろう。 一時間以上も昔話で盛り上がり、近いうちに逢いましょうと電話を切った。
2009年12月8日火曜日
十に月八日
昨夜、眠れないままに、NHKの番組で十二月八日が第二次世界大戦の開戦日で日本が、真珠湾攻撃をした日だったことを伝えていた。
日本が真珠湾攻撃をしたのは1941年の12月8日で、私は1930年生まれだから当時11歳だったわけだ。 今でも鮮明に記憶しているのは、その日の朝刊に潜航艇で米国のハワイ沖に停泊していた航空母艦を撃沈したという記事と軍神とされた9人の海軍士官の写真だった。 どの方も私にはハンサムな青年に見えた。
一人一人が潜航艇に乗って・・というよりは余り余裕のない潜航艇にもぐって敵艦に突っ込んだ。 その後
大本営発表で「日本帝国は米国と戦争状態に入れり・・・」と宣戦布告をした。
その時以来、私は海軍士官に憧れた。 海軍士官は海軍兵学校を出て、海軍士官となり、眼鏡をかけている人は一人もいなかった。 近視の人は兵学校には入学出来なかったから・・・。 「私、絶対海軍さんと結婚するわ!」私はその頃本気でそう思っていた。 帽子をかぶり短剣をつけ敬礼も、軍艦、潜水艦の中は狭いので、腕の角度がシャープで格好よかった。
子供だったのよね~、戦死する(お国のために・・・)なんてことは考えなかったのだから・・・~。
何年か前ハワイを訪れた時、当時の潜航艇がハワイ沖に展示してあり、潜航艇が突っ込んだ時の写真があるということだったが、私はそれを見る気持ちになれず、一人観光バスの中にとどまって他の方々が戻って来られるのを待った。
当時軍神として讃えられ新聞の一面に写真が載った海軍将校達の年齢は23,4歳だった。
日本が真珠湾攻撃をしたのは1941年の12月8日で、私は1930年生まれだから当時11歳だったわけだ。 今でも鮮明に記憶しているのは、その日の朝刊に潜航艇で米国のハワイ沖に停泊していた航空母艦を撃沈したという記事と軍神とされた9人の海軍士官の写真だった。 どの方も私にはハンサムな青年に見えた。
一人一人が潜航艇に乗って・・というよりは余り余裕のない潜航艇にもぐって敵艦に突っ込んだ。 その後
大本営発表で「日本帝国は米国と戦争状態に入れり・・・」と宣戦布告をした。
その時以来、私は海軍士官に憧れた。 海軍士官は海軍兵学校を出て、海軍士官となり、眼鏡をかけている人は一人もいなかった。 近視の人は兵学校には入学出来なかったから・・・。 「私、絶対海軍さんと結婚するわ!」私はその頃本気でそう思っていた。 帽子をかぶり短剣をつけ敬礼も、軍艦、潜水艦の中は狭いので、腕の角度がシャープで格好よかった。
子供だったのよね~、戦死する(お国のために・・・)なんてことは考えなかったのだから・・・~。
何年か前ハワイを訪れた時、当時の潜航艇がハワイ沖に展示してあり、潜航艇が突っ込んだ時の写真があるということだったが、私はそれを見る気持ちになれず、一人観光バスの中にとどまって他の方々が戻って来られるのを待った。
当時軍神として讃えられ新聞の一面に写真が載った海軍将校達の年齢は23,4歳だった。
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