戦後、私たちにはもう一つの不安があった。
果たして私たちはこのまま、当時の地域に住みつずけることが出来るかどうか・・・と言う問題があった。 特に私は長女だったので、時々父母の話すのを敏感に感じ取っていた。
父は戦時中、いわゆる軍事工場の工場長をしていたので、当然、所謂レッド・パージに該当して新しい職につくことは難しいだろうと思われた。 「津野に引っ越すか?」と母に話しているのを私は聞いた。 津野と言うのは、父の養家先で福岡県の英彦山の麓の小さな村だった。
「冗談じゃない!」私は大反対だったが、それかと言って、それから4人の子供を収入なしで暮らす事など出来ないということは想像できた。
その頃、父が勤めていた会社の確か勤労課長をしていた関西出の方が、父に色々忠言をして下さり、所謂「闇商売」を勧めて下さったらしい。 でも今考えると父はあまり深入りは出来ず、私の知る限りでは白羽二重の反物が沢山洋服ダンスの引き出しに入っていた記憶がある。
それに、一番下の妹が週に何回か父とそのお宅に行って、アメリカ製のガム、チョコレートなど
頂いてきたのがトテモ羨ましかった。 補足として、その御夫妻には子供がなかったので、下の妹を養女にくれないか?という話があった由で、モノのない時代のことなので、若しかしてそうなったら妹は幸せだろうか?と思ったこともある。 今考えるとトテモ切ない、悲しいことだ。
2007年8月27日月曜日
2007年8月26日日曜日
戦後のエピソード2
戦争終結後、どのくらい経って学校へ行くことが出来たのか、はっきりとは覚えていない。 多分一ヶ月くらい後だったのだろう。 何しろその通学が私にはトテモ辛い物だった。 浦和駅まで歩いても40分くらいはかかるし、近所から出ているバスはまるで不定期で、しかも何時故障で動かなくなるかしれなかった。 電車に乗るということは、大変なことで、時間帯によっては押しつぶされそうになったり、時々は、電車のタラップのところに捕まって、下に落ちた中学生を見たりした。 色々な通学方法を考えてみたが、私には歩く事が一番正確で結局楽な方法だった様な気がする。
学校は爆撃も受けてなかったので、割りに穏やかに過ごす事が出来た。 それでも学校の回りは生徒達の植えたサツマイモ畑で覆われていた。 私たちの授業は、先ず国家主義的、反米的な部分を翌日までに墨で塗りつぶしてくる作業で始まった。 歴史の教科書などは殆ど真っ黒で読み上げる事は至難の業だった。
驚いたのは、一部教師の態度の変化だった。 都立の高校には必ず軍人上がりの教官がいて、その教師が突然オベンチャラ教師に変わった。 これもこれから生きていくための努力だろうなあ~などと大人っぽい判断をして、納得していた。
学校は爆撃も受けてなかったので、割りに穏やかに過ごす事が出来た。 それでも学校の回りは生徒達の植えたサツマイモ畑で覆われていた。 私たちの授業は、先ず国家主義的、反米的な部分を翌日までに墨で塗りつぶしてくる作業で始まった。 歴史の教科書などは殆ど真っ黒で読み上げる事は至難の業だった。
驚いたのは、一部教師の態度の変化だった。 都立の高校には必ず軍人上がりの教官がいて、その教師が突然オベンチャラ教師に変わった。 これもこれから生きていくための努力だろうなあ~などと大人っぽい判断をして、納得していた。
2007年8月25日土曜日
戦後のエピソード
何回目カのブログに戦前よりむしろ戦後の辛かったと書いた。
戦時中はお国の為に・・・という大義名分があって、、実際果たして勝てる物かどうかの確信があったわけでもないし、最終的にもし敵軍が日本に上陸してきたら竹ざおを持って闘え・・・といわれたところで、そんなことをする以前に私たちは空襲でメチャクチャになってしまうだろうと思っていた。 戦争末期になって、廣島に原爆が落とされた時も、新聞の一面に「新型爆弾か?」と報道があっただけで、その詳しい様子など、我々は知る由も無かった。
戦争が終結した時も、「本日正午に重大な発表があります」とラジオで報じていても、多分「国民一致団結して敵に立ち向かえ」と天皇がおおせられるのだろう、と思っていた。 あの所謂玉音放送も、ラジオが雑音で聞きにくい上に、天皇のお話になりかたが浮世場慣れしていて、正直殆ど理解が出来なかった。 ただ、どうも戦争が終ったらしい・・・と言うことと以前にも書いたが今日は空襲はないのだろうな~・・・と夏の青い空がもっと青く見えた。
戦時中はお国の為に・・・という大義名分があって、、実際果たして勝てる物かどうかの確信があったわけでもないし、最終的にもし敵軍が日本に上陸してきたら竹ざおを持って闘え・・・といわれたところで、そんなことをする以前に私たちは空襲でメチャクチャになってしまうだろうと思っていた。 戦争末期になって、廣島に原爆が落とされた時も、新聞の一面に「新型爆弾か?」と報道があっただけで、その詳しい様子など、我々は知る由も無かった。
戦争が終結した時も、「本日正午に重大な発表があります」とラジオで報じていても、多分「国民一致団結して敵に立ち向かえ」と天皇がおおせられるのだろう、と思っていた。 あの所謂玉音放送も、ラジオが雑音で聞きにくい上に、天皇のお話になりかたが浮世場慣れしていて、正直殆ど理解が出来なかった。 ただ、どうも戦争が終ったらしい・・・と言うことと以前にも書いたが今日は空襲はないのだろうな~・・・と夏の青い空がもっと青く見えた。
2007年8月24日金曜日
久しぶりのジム
8月3日にジムに行って以来、今日までジムをお休みしたことになる。 箱根で涼しい時と、ご馳走を沢山頂いたので、体重計に乗るのがトテモ心配だった。 やっぱり、増えていた!
インストラクターが「伊藤さんは高校野球の応援に大阪に行かれた行かれたのかと思いました」と受付で会うなり、そう言った。 義弟が京都外大付属西校の理事と総長だと言うことを彼はよく覚えていたらしい。 一昨年、決勝戦で敗れたことを大勢の仲間達も覚えていてくれた。 顔なじみの友人達が「どうなさったの?」と尋ねてくださり、長くお休みしても直ぐ打ち解ける事が出来た。 同好の士は有り難い物だ。
昨日から猛暑も少し落ち着いてきたようだ。 留守をしている間に、カタズケなければならない事が沢山ある。 ワン・バイ・ワンでカタズけるしかない。 気を遣う問題が一番疲れる。 楽しい事の後は・・・という次第。
作日、投稿した箱根での楽しい記録が消えてしまった! まだこのブログには慣れていたい!
インストラクターが「伊藤さんは高校野球の応援に大阪に行かれた行かれたのかと思いました」と受付で会うなり、そう言った。 義弟が京都外大付属西校の理事と総長だと言うことを彼はよく覚えていたらしい。 一昨年、決勝戦で敗れたことを大勢の仲間達も覚えていてくれた。 顔なじみの友人達が「どうなさったの?」と尋ねてくださり、長くお休みしても直ぐ打ち解ける事が出来た。 同好の士は有り難い物だ。
昨日から猛暑も少し落ち着いてきたようだ。 留守をしている間に、カタズケなければならない事が沢山ある。 ワン・バイ・ワンでカタズけるしかない。 気を遣う問題が一番疲れる。 楽しい事の後は・・・という次第。
作日、投稿した箱根での楽しい記録が消えてしまった! まだこのブログには慣れていたい!
2007年8月16日木曜日
戦争は終ったけれど;;;
戦争が終結を迎える一週間ほど前、私たちが通っていたレンズ工場で火災が起きて、私たち女学生はその工場に行くことが出来なくなっていた。 しかもその工場の庭の端に不発弾が突き刺さっていて、何時それが爆発するかもしれなかった。 その火事場でレンズを運び出す作業をして、私の顔はまるで火傷を負ったように真っ赤に脹れ上がっていた。 今時の?高校生には信じられない事だろうけれど、当時女学校三年生から’動員’されて、半数は学校工場と言って学校で軍服などのミシンかけ、など可也楽な毎日を送っていた事を、戦後私たちは知った。
当時は近くの工場で働く事がトテモ誇らしく、特に旋盤工は憧れの的だった。 中でもその班の班長は日の丸に神風と書いた鉢巻をキリりとまき、その手ぬぐいの数が少なくて全員にはわたらなかった、それほどモノは少なかったのだ。 私としては何とも尻切れトンボの感じで、その精機光学という工場との縁が終った。
当時は近くの工場で働く事がトテモ誇らしく、特に旋盤工は憧れの的だった。 中でもその班の班長は日の丸に神風と書いた鉢巻をキリりとまき、その手ぬぐいの数が少なくて全員にはわたらなかった、それほどモノは少なかったのだ。 私としては何とも尻切れトンボの感じで、その精機光学という工場との縁が終った。
2007年8月15日水曜日
終戦記念日
今年は終戦後62年経ったと報じている・・・という事は、私は今、77歳なのだから、当時は15歳だったわけだと改めて思い返した。
毎年、私はあの日のことを私のホームページに何度か記してきている。 あの日は真っ青な美しい空で、あの日以来、その青い空にはB29の来襲はなくなったわけで、そのことがどんなにか大きな安心感を皆に与えた事だろう。 その頃私たち家族は東京都から橋一つ渡った埼玉県の戸田市に居を移していた。 これも、当時9歳だった次女を強制集団疎開から守るためだった。
私にはその後の戦後の暮らしも今思えば大変辛い物だったと感じている。
今夜はこの大田区で昭和59年以来雨の日を除いて、平和都市宣言の花火大会が開催されている。
今年は区政60周年を記して6000発の花火が、暑い夜空に打ち上げられた。 さすが、今までに無くトテモ豪華な花火の数々を我が家の門前の道路から眺めた。 その一つ一つが戦争で命を落とされた方方へのはなむけと思うと、後で来るド~ンという腹にに響く音はなんとも言えない哀愁を感じさえする。 あれから、もう62年も経ったのだ。
毎年、私はあの日のことを私のホームページに何度か記してきている。 あの日は真っ青な美しい空で、あの日以来、その青い空にはB29の来襲はなくなったわけで、そのことがどんなにか大きな安心感を皆に与えた事だろう。 その頃私たち家族は東京都から橋一つ渡った埼玉県の戸田市に居を移していた。 これも、当時9歳だった次女を強制集団疎開から守るためだった。
私にはその後の戦後の暮らしも今思えば大変辛い物だったと感じている。
今夜はこの大田区で昭和59年以来雨の日を除いて、平和都市宣言の花火大会が開催されている。
今年は区政60周年を記して6000発の花火が、暑い夜空に打ち上げられた。 さすが、今までに無くトテモ豪華な花火の数々を我が家の門前の道路から眺めた。 その一つ一つが戦争で命を落とされた方方へのはなむけと思うと、後で来るド~ンという腹にに響く音はなんとも言えない哀愁を感じさえする。 あれから、もう62年も経ったのだ。
2007年8月14日火曜日
涼しかった箱根、でも・・・
先週8日から上の妹宅の別そうに行っていて、今日帰京いたしました。
1年ぶりの箱根だったので、妹と2人京都から届いた荷物の整理とベッドなどの設えで、可也時間がかかりました。 9日の深夜と言うか10日の早朝午前2時ごろ妹の娘夫妻が神戸から車で5時間かけてやってきました。
12日に十里木に来ていた下の妹夫妻と近くのイタリアンレストランで会食する予定だったのに、珍しく上の妹が高熱を出し、姪の夫も胃をいため熱を出してしまって、少し淋しい夕食会になりました。
その翌朝は上の妹の夫が理事長をしている京都外大付属西校が夏の高校野球に出場するので、皆大興奮! 午前8時半からテレビにかじりっつき参戦。 トテモ、センセイショナルな延長試合になり、結局、5対3で勝ち進みました。 予想通り、妹はその後熱が下がりました?!
私たちが箱根で過ごしている間、東京は物凄い暑さだったようですが、明日から少しでも涼しくなりますように・・・。
1年ぶりの箱根だったので、妹と2人京都から届いた荷物の整理とベッドなどの設えで、可也時間がかかりました。 9日の深夜と言うか10日の早朝午前2時ごろ妹の娘夫妻が神戸から車で5時間かけてやってきました。
12日に十里木に来ていた下の妹夫妻と近くのイタリアンレストランで会食する予定だったのに、珍しく上の妹が高熱を出し、姪の夫も胃をいため熱を出してしまって、少し淋しい夕食会になりました。
その翌朝は上の妹の夫が理事長をしている京都外大付属西校が夏の高校野球に出場するので、皆大興奮! 午前8時半からテレビにかじりっつき参戦。 トテモ、センセイショナルな延長試合になり、結局、5対3で勝ち進みました。 予想通り、妹はその後熱が下がりました?!
私たちが箱根で過ごしている間、東京は物凄い暑さだったようですが、明日から少しでも涼しくなりますように・・・。
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